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はじロー(15)努力への称賛を求めなくてもいい

はじめて読むローマ人への手紙3章27-28節

努力への称賛を求めなくてもいい

信じるだけで天国が自分のものになる、なんてことがホントウニあるんだろうか。

ちゃかすように言われていたこともある「しんじなさい、しんじなさい、そうすればすくわれる」が、いま案外と日本に浸透しているかも、と思えます。

信じることがとても尊重され、信じることに疑いや批判めいた言葉など仕向けちゃいけないみたいな感じもするくらい。

で、何を信じるか、といえば、一番多いのが自分。私の場合は、一番信じられないのが自分だったから、「自分を信じろ」攻勢の中で、信じられる「キリスト」に出会えたことは、本当に救いでした。

たぶん幼少の頃から負けず嫌いで、始めたものはとことんやり詰める。負けないところだけに集中して、成果を残すことが生きがいのようになっていたのですが、あるとき、急に、目標を見失って、コン詰めて努力することからも逃れてしまいます。

自分を信じられず、ほめられることが目標になってしまっていたのかなー、と、今では思うのです。

何のためにほめられたいか、って、それは、愛されるためにだったように思うんですね。ほめられる、イコール愛されていることを実感すること、でした。

そして、実績を上げるようになると、それが誇りになり、やめられなくなってしまいます。

でも、大きく間違っていたのです。成果を上げたら愛される、という思い込み。それが大間違い。何かをするかしないか、ではなく、もともと、愛されている。でもそれを信じていなかったのでした。そして、自分が築き上げているものを誇るようになっていたのでした。

神が私たちを愛している。それを信じない。神が、私たちと一つになりたいと願い、最大の自己犠牲を払ってくれた。それを信じない。問題はそれだったのですが、愛されたい、ほめられたい、認められたい、と、見当違いの努力を払おうとしていたのです。

何を信じたらいいのか。自分を愛してくれている神を信じること。そして、神に愛されている自分を信じること。そこでは、自分を誇ることはありません。そうして、神との正しい関係を結ぶことができるのです。

ローマ人への手紙3章27‐28節

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。
人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。


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