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エクレシア ―活動する聖徒たち―


ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と告白したことを受けて、父の啓示によってその告白にいたったのだ、とイエス・キリストは念を押した。その「告白者」には天国のかぎが授けられている、そういう教会を建てる、というキリストの言明を見た。

かぎを与えられていることを知った者は、それをどうするか。

そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう。(マタイ16:18,19)


この箇所では、これをどう使え、という命令もない。ただ、「授けよう」という約束だけが記されている。

どう使うかは、本人の自覚しだい、自発性に任されているようにも見える。ただ、マタイの福音書の最後は、宣教の大命令で閉じられていることを思えば、もちろん積極的にこのかぎを使うように、福音を宣べ伝えてキリストの弟子 とし、バプテスマを授け、キリストのすべての命令を守るように教えることが促されている。それを聞いて、わたしたちはどうするか。

ローマ帝国のもとで国教化されてからあとの長い教会の歴史の中で、「信者」は、「教会」の実施するさまざまな儀式に受動的に参加することを教育されてきてしまっているように思える。

「教会」を運営する少数の集団が実施し、多数の人はその儀式に預かるだけ、という形に収まっている。そうした理解では、福音を宣べ伝えることも、バプテスマを授け、キリストの命令を教えることも、自分のことではない、というところで落ち着いてしまう。「教会」の主体は指導者層であって、平信徒はいすに座っているだけで良いのか? 「教会」とは、そういう集まりなのか?

いったい、「教会」とは何かをよく調べる必要があるのだろう。

教会の実体とは、キリストの告白者が天国のかぎを授けられてそれを使用するために主に仕える人々の集まりのはずではないか。キリスト告白した者は、聖徒として神に受け入れられる。そこにとどまらず、自分が手にしているかぎを使って、キリストによって成し遂げられた罪の赦しを伝える者となる。その自発的集団が、教会なのではないか。

形式的に告白したり、形式的にバプテスマを受けた者の集まりではない。心からの告白をして、主にひとつとされたことを喜んで御言葉に従う決心の表明としてバプテスマを受けて、この協会に参加すること。ここにはすでに、福音宣教への自発的参加が意識されているべきではないか。

つまり、キリストの救いを受けてから、教会に参加するもしないも、本人の自由といえば自由。

ただ、キリストによる罪の赦しの恵みを知った者は、それを自分の心の内にだけとどめることができるのだろうか? 天国のかぎを手にしながら、それを使わないままにどこかにしまいこむことなど、できるのだろうか? 

その自覚が芽生えるためにも、もちろん、御言葉の学びを通して聖霊の促しが必要だろう。バプテスマを受けて教会に加わるようにという直接的な「命令」の言葉がないのは、このように、信仰による自発的な教会参加が原理だからなのだろうと思う。

東アジアの宣教に携わっているかたがたから現地の「教会」の実際を聞くと、官憲の監視の中、真実に御言葉に聞き従おうとする者たちだけが、ある程度の危険を冒しながらも集まってきている教会の姿を知ることができる。彼らは、自分たちの使命を理解しているがゆえに、互いの信頼を裏切ることなく、個人的な信仰のあかしをしていくための知恵と力を真剣に求めて、御言葉を聞く。いくら時間があっても足りないくらいに、御言葉の真理の探究がなされる。集まっているその場でしか、真理を身につけることはできないからだ。

そのような話を聞くにつけ、平穏な社会の中で続けられている安穏とした教会生活が、本当にこれで良いのかと問いただされる思いがする。もう一度、教会の基本に立ち返る必要があるのではないか。いったい、教会とは何か?

天国のかぎを授けられていることを自覚して、それを使おうと自発的に宣教の活動に参加する者の集まりが教会だ、と再確認したい。



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