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ドリアンのシンガク・ノート(キリスト教神学)

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聖書や教会に関するちょっとリクツっぽい話。見えない神がここで見えるはずなのに、違って見えているかも、というところが気がかり。
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#福音

シンガク・ノート メモ

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キリストの終末預言(10) 世の終わりの恵み

マタイ25:1-13 いつ起こるのか誰にも決して知られることがない、天に引き上げられるという出来事を、どのように待ち受けたらいいのでしょうか。しかもそれが本当は誰に起こるのか、いつどうなるかわからないままでいる不安を解消できる、はっきりとした基準が、弟子たちに語られます。 ただし、譬で、というところがちょっと難しいところです。マタイの福音書13章でも譬による天国の教えが多数ありましたが、イエス・キリストに繰り返し問い直す弟子たちにだけ、その意味が明らかにされていました。尋

キリしよん マタイによる福音書24-25章 イエス・キリストの終末預言

マタイが記録しているイエス・キリストの5大説教集の最後。オリーブ山という、エルサレム神殿を真正面に見る丘で弟子たちに語られたものです。 キリストの昇天が紀元30年と考えられていますが、あと10年ほどでちょうど2000年になる今、この説教は緊迫感を伴って私たちの心に迫ってきます。 マルコもルカも、少し違う視点からまとめています。ここでは、マタイの視点に沿って学んでいきたいと思います。 神殿、今の世の終わりと患難時代の前兆~気をつけなさい

キリストの終末預言(8)―天に引き上げられるという福音―

マタイ24:34-41 天に引き上げられる。天にも昇る気持ち、いや、気持ちだけではないのです。 でも、すべての人、ではないみたい。なぜ? だいたい、天に引き上げられる、という出来事のスケールが大きすぎるので具体的にイメージするのが難しいのですが、それは、神さまが大きすぎてイメージするのが難しい、ということにつながるように思います。 それで、神さまはいったい何を考えているんだろう、いったい人間に理解できるんだろうか、という疑問も生まれるのです。 神さまの側からしたら

キリストの終末預言(7) ―譬から学びなさい―

マタイ24:32-41 天に帰る。死んでから、というのではなく、生きているときに。生きながらにして天にあげられる時が来る、という教えが、聖書にあるように思います。それがどう実現するのか。 24章から始まったイエス・キリストの終末預言は、「世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難」(マタイによる福音書 24章21節)を知らせてきていました。 大患難があるという預言は、イエス・キリストの弟子たちにどういう意味があるのか。弟子も患難を味わう事になるのか

ヨハネ福音書ノート 「はじめにことばが... そして過越の祭が近づいた」

教会でヨハネ福音書を通読して学びました。 随所にある、とても大切なフレーズを、それ以前にいくつか学んだことはありますが、全体を通して学ぶのは、これがはじめて。ヨハネは、ほかの福音書が記していない独自の視点から、神の御子であるイエス・キリストを描いています。 イエス・キリストの時それが、「はじめに」あった「ことば」。ある「時」人となった。バプテスマのヨハネの登場ではじまったその「ことば」についてのあかしは、「その翌日」のあかしに続き、さらにキリストが人々に直接触れていく日々

キリストの終末預言(4) 苦しみに会う時

マタイ24章9-14節 「世の終わり」でイメージするのは、どういうわけか、良くないことごとが多いような気がします。 たぶん、聖書の「預言」と言ってすぐに思い起こすのは黙示録なのです。「地獄の黙示録」という映画があるほど、「黙示録」には悲惨なイメージがついて回ります。様々な災害が、実際、描かれているからです。 それらは「血の報復」(黙示6:10)に神の怒り(黙示6:16)が盛り尽くされる時だからです。 誰の血に対する報復? 誰に対する怒り? 出来事の予告産みの苦しみ

キリストの終末預言(3) 終わりの日の前兆

マタイ24章4-8節 日本での毎日の生活に、天気予報は欠かせません。 でも、インドネシアでは毎日の天気予報に関心が向けられることはありません。雨が降るのはだいたい午後以降で、しかも、急に積乱雲が発達して、狭い地域でゲリラ雨のように降るのが普通ですから。雨が降ったら、雨脚の激しい1時間くらい、雨宿りしてその時が過ぎ去るのを待って、また活動に戻る。それだけです。 何を着ようか、傘の備えは必要だろうか。そういう悩みを持ちえない生活では、天気予報は必要ありません。 それと同じ

キリストの終末預言(2) 将来に対する弟子たちの不安

マタイ24章1-3節 どんなきっかけで、「世の終わり」などということに関心を持つことになるでしょうか。 イエス・キリストの弟子たちは、すぐに手に入るかもしれない栄光を夢見つつ、ふと発した言葉に、思いがけない返事を受けて、慌てて、これからどうなるの、と、不安になったのがきっかけだったようです。 宗教経典で、世の初めと歴史、それに世の終わりを具体的に書いているものは、そう多くはないかもしれません。聖書は、世の始めから終わりまでを丁寧に伝えています。預言が語られるまでの経緯も

イザヤ預言書ノート「永遠の神が歴史に介入する」―全世界が仰ぎ見る神―

イザヤ書全体が、一人の「預言者イザヤ」によって書かれたことを前提に、この預言書の意図、内容を学んでいきます。 預言は、歴史の中に神が介入され、預言者を通して語られたものであるゆえに、語られた時代背景、状況把握が重要。それで、イザヤ書のいくつかの箇所で指示されている、それぞれの事件の起きた時を基準に、全体を眺めてみることにします。 [ I ] 1:1 アモツの子イザヤがユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世にユダとエルサレムについて見た幻。 [ II ] 6:1

イエス・キリストの歴史と真理 マタイ福音書ノート

―天国の福音―「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。」 使徒マタイによるイエス・キリストの系図[ギリシャ語genesis]。マタイは、イエス・キリストの十二使徒のひとり(マタイ10:3)。自分に関して「取税人」とわざわざ肩書のように記しています。マルコもルカも、肩書なしのマタイとだけ紹介しているだけなのに(マルコ3:18,ルカ6:15)。エピソードの順序を時間順ではなくテーマごとにまとめて書いているマタイが、自分の出自を福音書9章に置いているのは、罪が赦

異邦人伝道の革命的なスタート

使徒行伝13:4-12 伝統的な考えからしたら絶対に受け入れられないことを、神が始めた。そしたら、どうする?それで命を狙われることになったら、どうする? パウロが、それを経験します。もともと、イエス・キリストの弟子たちを投獄したり処刑したり、迫害の先頭を切っていたパウロでした。今度は迫害される立場になります。 それが、「異邦人伝道」のせいでした。その最初の出来事が、実際、革命的な事だったのです。 バルナバとパウロ(ヘブル名がサウロ)が派遣されて出かけて行った先のキプロ

一人の人による「死」と「命」

ローマ5:12 どんな民族でも、死があり弔うための宗教があります。一緒に笑い泣いたりしていた人が遠くに行ってしまってもう戻らない、という感覚は、共通。この世からあの世へ、です。 死は、辛く悲しい現実です。 そこから先、普通は、自分もまた同じところに行って、再会できたらいいなぁ、という期待を持つところどまりですが、その再会をはっきりと約束する言葉が書きとどめられているのが、聖書。 「言葉」は大事ですね。この頃は言葉の暴力についてニュースでもしばしば見聞きします。こころを

III-1 すべての人が信仰によって死のからだからの救いを得て生きる

ローマ 5:12-8:39 ローマ人への手紙第三部の最初の議論は、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人がかかわる「罪のからだ、死のからだ」からの救いについてです。 こころ・霊とからだ霊は生きても、からだが死んだままでは、神の栄光をあらわす本来の人間としての働きはできない、とパウロは看過しているようです。人が神に生きるためには、「罪のからだ」(6:6)、「死のからだ」(7:24)から救われることがまず必要になるのです。 聖書が示す人間像は、魂と体が一体の存在です。それが、人