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ドリアンのシンガク・ノート(キリスト教神学)

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聖書や教会に関するちょっとリクツっぽい話。見えない神がここで見えるはずなのに、違って見えているかも、というところが気がかり。
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#イスラエル

シンガク・ノート メモ

めもめも 旧約聖書 新約聖書 その他

キリしよん(11) 天国を持つ人、持たない人

マタイ25:14-30 キリストの終末預言、略して「キリしよん」。譬と同じで、説明を聞かないとこれだけ見てもわからない、ですよね。 天国の譬話が続きます。「タラントのたとえ」というタイトルで有名な個所です。 前回は、思慮深いか思慮が浅いか。その違いは、「わたしはあなたがたを知らない」と言われて置いてけぼりにされるほどのものでした。でもその譬による教えの結論は、むしろ、恵みをほうふつとさせるものでした。 今度の譬は、「良い忠実な僕」「悪い怠惰な僕」の違いを教えてくれるも

キリストの終末預言(8)―天に引き上げられるという福音―

マタイ24:34-41 天に引き上げられる。天にも昇る気持ち、いや、気持ちだけではないのです。 でも、すべての人、ではないみたい。なぜ? だいたい、天に引き上げられる、という出来事のスケールが大きすぎるので具体的にイメージするのが難しいのですが、それは、神さまが大きすぎてイメージするのが難しい、ということにつながるように思います。 それで、神さまはいったい何を考えているんだろう、いったい人間に理解できるんだろうか、という疑問も生まれるのです。 神さまの側からしたら

ヨハネ福音書ノート 「はじめにことばが... そして過越の祭が近づいた」

教会でヨハネ福音書を通読して学びました。 随所にある、とても大切なフレーズを、それ以前にいくつか学んだことはありますが、全体を通して学ぶのは、これがはじめて。ヨハネは、ほかの福音書が記していない独自の視点から、神の御子であるイエス・キリストを描いています。 イエス・キリストの時それが、「はじめに」あった「ことば」。ある「時」人となった。バプテスマのヨハネの登場ではじまったその「ことば」についてのあかしは、「その翌日」のあかしに続き、さらにキリストが人々に直接触れていく日々

キリストの終末預言(4) 苦しみに会う時

マタイ24章9-14節 「世の終わり」でイメージするのは、どういうわけか、良くないことごとが多いような気がします。 たぶん、聖書の「預言」と言ってすぐに思い起こすのは黙示録なのです。「地獄の黙示録」という映画があるほど、「黙示録」には悲惨なイメージがついて回ります。様々な災害が、実際、描かれているからです。 それらは「血の報復」(黙示6:10)に神の怒り(黙示6:16)が盛り尽くされる時だからです。 誰の血に対する報復? 誰に対する怒り? 出来事の予告産みの苦しみ

キリストの終末預言(1)

将来のことを知りたい。これからどうなっていくのか、どうすべきか、知りたい。個人のレベルから民族のレベルまで、重要な局面に立たされた時に、この願いが起きるものです。 占いがなくならないことも、そのあらわれでしょう。「信じるわけではないけれど」と言いつつも、なにかしらの心のよりどころを求めたくなります。占いによって語られた言葉をどうするか、自分が決めるのだから、友達の意見を聞くのと同じ、、、なのでしょうか。 民衆の熱狂的な支持を受けて、「イエスを王として擁立して、神の国を立ち