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ドリアンのシンガク・ノート(キリスト教神学)

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聖書や教会に関するちょっとリクツっぽい話。見えない神がここで見えるはずなのに、違って見えているかも、というところが気がかり。
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#預言

シンガク・ノート メモ

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キリしよん(11) 天国を持つ人、持たない人

マタイ25:14-30 キリストの終末預言、略して「キリしよん」。譬と同じで、説明を聞かないとこれだけ見てもわからない、ですよね。 天国の譬話が続きます。「タラントのたとえ」というタイトルで有名な個所です。 前回は、思慮深いか思慮が浅いか。その違いは、「わたしはあなたがたを知らない」と言われて置いてけぼりにされるほどのものでした。でもその譬による教えの結論は、むしろ、恵みをほうふつとさせるものでした。 今度の譬は、「良い忠実な僕」「悪い怠惰な僕」の違いを教えてくれるも

キリストの終末預言(7) ―譬から学びなさい―

マタイ24:32-41 天に帰る。死んでから、というのではなく、生きているときに。生きながらにして天にあげられる時が来る、という教えが、聖書にあるように思います。それがどう実現するのか。 24章から始まったイエス・キリストの終末預言は、「世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難」(マタイによる福音書 24章21節)を知らせてきていました。 大患難があるという預言は、イエス・キリストの弟子たちにどういう意味があるのか。弟子も患難を味わう事になるのか

キリストの終末預言 (6) ホントウの救い主、って。。。?

マタイ24章23-31節 世の救い主、と呼ばれる人とは、どんな人なのか。それは私の救い主でもあるはずだけれど、どれが本当の救い主なのか。そもそも、本当の救い主はいるのか。 困難のただ中にある時、助けの手を差し伸べてくれる人があれば、それにすがるのは自然の成り行き。その人が本当に善意でしてくれているのかどうか、その時には考える余裕もないままに。「弟子」にとっても同じで、救いの手が差し伸べられるとき、「神の助け」と思ってそれにすがってしまうだろうと思います。 はっきりと「偽

キリストの終末預言(5) 大迫害者が来てしまったら

マタイ24章15‐22節 聖書の中で預言と言われる箇所を、どう読んだらいいのか。未来の出来事を本当に教えてくれるのか。 ユダヤ人にとって、基本は「モーセの律法」にある預言だったはずです。祝福と呪いの預言が、実際にバビロン捕囚として実現した。でも、今はそれすらも事実というより神話としている流れが主流。もし神話にしてしまうんだったら、神とイエス・キリストもまた神話の中にしかいなくなりそう。 でも、約束を守る遺伝子は、神から来ていると思うんだけれど。あ、これは比喩的表現です

キリストの終末預言(3) 終わりの日の前兆

マタイ24章4-8節 日本での毎日の生活に、天気予報は欠かせません。 でも、インドネシアでは毎日の天気予報に関心が向けられることはありません。雨が降るのはだいたい午後以降で、しかも、急に積乱雲が発達して、狭い地域でゲリラ雨のように降るのが普通ですから。雨が降ったら、雨脚の激しい1時間くらい、雨宿りしてその時が過ぎ去るのを待って、また活動に戻る。それだけです。 何を着ようか、傘の備えは必要だろうか。そういう悩みを持ちえない生活では、天気予報は必要ありません。 それと同じ

キリストの終末預言(1)

将来のことを知りたい。これからどうなっていくのか、どうすべきか、知りたい。個人のレベルから民族のレベルまで、重要な局面に立たされた時に、この願いが起きるものです。 占いがなくならないことも、そのあらわれでしょう。「信じるわけではないけれど」と言いつつも、なにかしらの心のよりどころを求めたくなります。占いによって語られた言葉をどうするか、自分が決めるのだから、友達の意見を聞くのと同じ、、、なのでしょうか。 民衆の熱狂的な支持を受けて、「イエスを王として擁立して、神の国を立ち

イザヤ預言書ノート「永遠の神が歴史に介入する」―全世界が仰ぎ見る神―

イザヤ書全体が、一人の「預言者イザヤ」によって書かれたことを前提に、この預言書の意図、内容を学んでいきます。 預言は、歴史の中に神が介入され、預言者を通して語られたものであるゆえに、語られた時代背景、状況把握が重要。それで、イザヤ書のいくつかの箇所で指示されている、それぞれの事件の起きた時を基準に、全体を眺めてみることにします。 [ I ] 1:1 アモツの子イザヤがユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世にユダとエルサレムについて見た幻。 [ II ] 6:1