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ドリアンのシンガク・ノート(キリスト教神学)

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聖書や教会に関するちょっとリクツっぽい話。見えない神がここで見えるはずなのに、違って見えているかも、というところが気がかり。
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2021年4月の記事一覧

異邦人伝道の革命的なスタート

使徒行伝13:4-12 伝統的な考えからしたら絶対に受け入れられないことを、神が始めた。そしたら、どうする?それで命を狙われることになったら、どうする? パウロが、それを経験します。もともと、イエス・キリストの弟子たちを投獄したり処刑したり、迫害の先頭を切っていたパウロでした。今度は迫害される立場になります。 それが、「異邦人伝道」のせいでした。その最初の出来事が、実際、革命的な事だったのです。 バルナバとパウロ(ヘブル名がサウロ)が派遣されて出かけて行った先のキプロ

一人の人による「死」と「命」

ローマ5:12 どんな民族でも、死があり弔うための宗教があります。一緒に笑い泣いたりしていた人が遠くに行ってしまってもう戻らない、という感覚は、共通。この世からあの世へ、です。 死は、辛く悲しい現実です。 そこから先、普通は、自分もまた同じところに行って、再会できたらいいなぁ、という期待を持つところどまりですが、その再会をはっきりと約束する言葉が書きとどめられているのが、聖書。 「言葉」は大事ですね。この頃は言葉の暴力についてニュースでもしばしば見聞きします。こころを

III-1 すべての人が信仰によって死のからだからの救いを得て生きる

ローマ 5:12-8:39 ローマ人への手紙第三部の最初の議論は、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人がかかわる「罪のからだ、死のからだ」からの救いについてです。 こころ・霊とからだ霊は生きても、からだが死んだままでは、神の栄光をあらわす本来の人間としての働きはできない、とパウロは看過しているようです。人が神に生きるためには、「罪のからだ」(6:6)、「死のからだ」(7:24)から救われることがまず必要になるのです。 聖書が示す人間像は、魂と体が一体の存在です。それが、人

III.義とされたユダヤ人もギリシャ人も福音の信仰によって生きる ノート

ローマ人への手紙 5:12-16:27 ここまで、信仰によって義とされることが語られてきました。それを受けて、「このようなわけで」と、信仰によって義人とされた者がどのようにして神に生きることができるのか、に話が進みます。 別の言い方をすると、信仰によって永遠の命を得たものが、どのようにしてその命に生きるか、ということです。「永遠の命を得た」その時から、「生きる」ことを学び始める必要があるのです。神に生きることは、自動的にできることではありません。 5:21 それは、

ローマ人への手紙の目的 ノート

「わたしたちはいかにして生きるか――手紙の受取り手と手紙の目的――」 宛先ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同(ローマ1:7)。 16章をみると、プリスカとアクラの「家の教会」が記されています(16:5)。皇帝クラウデオの命令でユダヤ人がローマから追放されたとき、彼らは一時期コリントに来ていました(AD50) 。その彼らが、クラウデオ帝の死後(AD54)、ローマにもどったわけです。 AD57年に書かれたと考えられるこの手紙は、そうした家の教会を含んだ「聖徒一同」へ

ローマ人へのパウロの手紙 ノート

Epistle of Paul to Romans 「わたしたちはいかにして生きるか」 ~神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。(1:17)~ 福音書と使徒行伝を通して、福音の事実、神の働きが全民族のためであったという歴史を明らかにしたあと、次に新約聖書が提示しているのは、パウロがローマの聖徒たちに書き送った「義人は信仰によって生きる」をテーマにした手紙。キリストをまだ知らない人にとっては