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遠くて近く、近くて遠い。       映画という名の魔物。

(序章)

猫や植物と語らう日々の暮らしの中、ちょっとしたきっかけで新しいことを始めてみようかなと思う瞬間(とき)がある。
とはいえ、もうかなりの齢を重ねた自分がこれまでとはまったく違うことに手を出すのも勇気がいる。そんなとき、ほんとうに懐かしいものが書棚の奥から出てきた。
それは20代〜30代の頃に在籍していた会社ぴあで手がけた「ぴあオリジナル広告」だ。

オリジナル広告、聞きなれない言葉だが、これはクライアントに企画を持ち込み、その媒体(ぴあ)独自の広告を宣伝部と共に作り上げるというもの。
対象となる業種は、旅行、電化製品、アパレルから化粧品、飲料、不動産とそれこそ多岐に渡ったが、自分の場合は、もとより映画畑を歩んできたこともあり、必然的に映画宣伝部への企画営業が増えていった。しかしなぜ、そんなものをいま引っ張り出したのか?

ぴあ企画制作室オリジナル広告集。
新規開拓のセールスツールとしてファイリングされた。


話はそこから一気に10年以上遡る。高校時代、映画研究会に入部した自分は先輩に言われるまま福岡中洲の桃山ビル(通称フィルムビル)があるユナイト福岡支社(九州支社かも)に向った。文化祭で売る部誌、いまで言う同人誌の広告をもらうためだ。
そのときユナイト宣伝部のKさんから渡された指定原稿がフランソワ・トリュフォー『夜霧の恋人たち』。その翌年はクロード・ルルーシュ『あの愛をふたたび』ケン・ラッセル『恋する女たち』であった。

修猷館映画研究部の部誌1969年、70年表4


Kさんは地元福岡の高校生、大学生の映画ファンの後ろ盾的存在でもあった。その声かけでマイケル・ウィナー『脱走山脈』の試写が開かれた。自分の属する高校の映画研究部と、もう一校、他校の映研の人たち数名がいたような気もするが、なにせ人生初の試写室。観るもの全てが新しく、舞い上がっていて正直なところそこは記憶が定かではない。いま思うに、あれはおそらく高校生に的を絞ったモニター試写だったのだろう。
このKさんのおかげで、後に淀川長治さんや荻昌弘さんとの小さな集まりにも顔を出す機会を得たのだが、それはまた別の話。ここではこの「新しいこと=note」を書くきっかけになったケン・ラッセルのオリジナル広告『アルタード・ステーツ』から話を始めることにしよう。
(第一夜)


高校まで過ごした福岡。
配給会社ユナイトが入るビルは中洲にありました。

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