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異なる床で同じ夢をみる~月城かなとと海乃美月

Eternal Voice 消え残る想い』の初見の感想で、海乃美月について「かつて読まれ、いま読まれつつある、読まれうるもの」という思いを込めて"テクスト"と半ば発作的に記述してしまったのは、まず第一に月城かなとのスター特性を「読む者」と措定した上で「(自らの短くはないであろう宝塚観劇史にあってこれまで雪組から月組にいたる様々な月城かなとを見てきたけど)やっぱりうみちゃんを読む月城さんがなにより好きだなあ……」という思いがあったからで、それは海乃美月ありきの月城かなと……と言ってしまえば語弊があるが、海乃美月を起源として再定義される月城かなと海乃美月コンビ=うみれいこ原理主義の控えめな標榜でもあり、そもそも当の海乃美月からして退団記念番組かどこかで「月城かなとの眼差しを媒介して、月城かなとが見ているであろう海乃美月のイメージに寄り添う」といった意味のことを言っていたように思う。メディア取材やら座談会番組で「目を見開き最大限耳をダンボにしてうみちゃんの話を細大漏らさず聞かんとするれいこさん」の図が見られるたび、読んでいるなあ……とニヤニヤしてしまうし、海乃美月がより強く足を踏みしめ、より華麗に旋回し、より朗らかに微笑むことができる大地を月城かなとによる「読むこと」の不断の営みが踏み固めているんだなあ、としみじみ思う。

例によって『今夜、ロマンス劇場で』に立ち戻ってみれば、そもそも美雪は奥行きのないスクリーン上に投影された表層存在として、すなわち具象的な手触りのテクスチャーとして、健司の眼差しによって一方的に触れられ続けてきたのだった。「人間は二度死ぬ」というよく知られた永六輔の文句がある。かつて俳優によって演じられた存在であったはずの美雪は、その俳優が肉体的に死に、やがて映画がほぼ誰からも忘れられてしまうという二度の死に見舞われ、とうにその起源から断ち切られながらも、世界の片隅の映画館でひとりの青年の眼差しのもとスクリーン上の再生と死を延々と再演させられつづけている。初見の感想では美雪の「現世」での在り方が幽霊譚のようだと書いたが、このシステマティックな、テクノロジーによって意思や来歴とは無関係に駆動しつづける在り方もまた別様に幽霊的ではないか。ちょっと『ファントム』を想起させるものがあるかも知れないなあ、とも思った。とはいえまともに観た『ファントム』は雪組版だけなのでこれはあくまで望海風斗と真彩希帆の属性に大きく依存する印象なのかも知れないが、物語終幕後、クリスティーヌ・ダーエがかつてエリックとともに奏でたメロディをたどたどしく、順番に鍵盤を押さえていくだけの機械的な所作によって反復すると、たちまちエリックの幻影=ファントムが立ち上がり、自動人形のように歌いはじめるのだ。当時自分はこの場面の印象を「望海風斗というスクリーンに望海風斗が映っている」と書き記したのだった。

映画冒頭においてしばしばその作品を貫く映像の規則が呈示されるように、トップコンビの道行きをひとつの作品と見なすなら(そしていくつもの枠組みが隣接し、重なり合いながらそれぞれ同時に展開しているのが宝塚歌劇なのだが)、『今夜、ロマンス劇場で』にはうみれいこの主題がすでに勢揃いしているように思えるし、こうやって何度繰り返し立ち戻っても擦り切れない、消尽されない、緻密さと鷹揚さ、密度と風通しの良さを兼ね備えた作品だとも思う。現在と過去の、表と裏の、高みと低みの、ほんものとにせものの、その他様々な盤面のあいだの絶えまない往還こそが宝塚歌劇を基礎づける運動だと信じる自分にとって、見立てにせよ構図にせよ細部にせよこの作品には見るべきところ、掬い上げたいところがあまりにも多くて、ひとつ書き出すとあれもそうだ、これはそうだった、となるとあそこは……とあっぷあっぷしてしまう。

スクリーンによって縫い止められつつ引き裂かれている二つの世界があり、二人はまるでガラス越しの口吻のように世界を媒介にして触れ合っている。健司にとってもはや美雪はスクリーン上に投影されるだけの表層存在ではない、だが美雪はあくまで健司の属する形而下的な物質世界の言語で、すなわち健司の眼差しを媒介したあり方で存在している。それが宝塚歌劇というものであり、主演トップスターというものを構成する言語様式でもあるだろう。美雪は健司の属する世界の言語様式のもとで現象していながら(だから「幽霊譚」なのだが)、他方でその存在様式をスクリーン内世界の法に規定されてもいる。まるで大地に落ちた月の影、彼女の芸名になぞらえるなら海に映る月のように分裂した世界を生きているのだ。あらためて「まるでわたしたちみたいな……」とれいこさんが言いかけたことを想起するし、うみちゃんが「月城かなとの眼差しを媒介した海乃美月」を指針としていると述べたこともなんとも端的かつクリティカルだったなあと思う(ついでに言えば『歌劇』7月号のうみちゃんさよなら特集で谷貴矢が「私の脳内海乃さん」と書いていたことも)。

そういえば上段で雪組版『ファントム』のことが召喚されてしまったのも、望海さんも取材やらで真彩ちゃんが話しているとき横でめっちゃ"聞いて"いたなあ、というまさにその光景がくっきり脳裏にこびりついていたからかも知れない。ただしだいもんの場合は目を見開くのではなく伏し目がちに、耳をダンボにするというよりは身体の側面にびっちりと耳を生やして。そもそもだいきほの場合、望海風斗こそが"起源"であり、真彩希帆が踏み固めた舞台の上で、真彩希帆によって高く持ち上げられたリフトの軌道に乗って舞台の隅々までその声や芝居を届けるエンジニアリングぶりこそがそのコンビ特性だったのだから。『ファントム』において時間遡行を「エリックの来歴にまつわる再現劇」という空間形式において体験するクリスティーヌと『Eternal Voice 消え残る想い』で同じ場所に宿泊して同じメアリー・ステュアートを夢を見たことを翌朝確認しあうユリウスとアデーラはいい対比関係にあるかもなあ、とふと思いついたりもしたけど。

同床異夢という言葉はあるけど、異床同夢という言葉はないんだよね、自分はそっちの言葉こそがほしいとずっと思ってきたんだけどなあ、という想いはうみれいこを観ることで随分と昇華できたと思う。


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