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「あいだ」の物語、愛の時間~雪組『BONNIE & CLYDE』を観て

開幕前、閉じた幕(緞帳にはトヨタの文字!)にBONNIE & CLYDEのロゴが映写され、そろそろ双眼鏡のピントを合わせとくかーといつもの儀式としてレンズに両目を当てて舞台の上下をキョロキョロ見渡していると、放射状に真っ白い埃のようなものがステージに向かって飛んでいるのが目に入った。なるほど、どうやら映写の光源はずいぶん低い位置(一階席と二階席のあいだ)にあるようだ。宝塚大劇場だと光は後方はるか頭上から降り注ぐものだった。やがて劇場におなじみ「すみれの花咲く頃」のメロディが流れ出し、たゆたっていた時間が開演に向かって急速に組織されゆこうとしていることがアナウンスされる。もうこの時点でずいぶんと宝塚にいる気分。やがて照明が落ち、天井に吊られたミラーボールが回りだし、いかにも作品舞台を想起させる緩やかな音楽が流れるなか、「みなさま大変長らくおまたせいたしました……」と彩風咲奈の声によってこの御園座の擁する劇場空間がすでに宝塚歌劇団の占拠下にあることが宣言される。なんだか胸が熱くなり、弾かれるように拍手、拍手。

BONNIE & CLYDEのロゴが消え、幕が開く。誰も見たことがないのに誰もが見たことがあるクライド・バロウとボニー・パーカーのイメージが、銃弾が雨あられと降り注ぐ音のなか血にまみれて車の座席に寄り添いながら背中を預け目を閉じる二人の姿が、先取りされた結末のフラッシュフォワードとして客席に呈示される。泣いても笑っても物語の向かう先はこの光景、この地点なのだ。だが実際には『BONNIE & CLYDE』の物語はこの地点には至らない。クライドとボニーのドライブは永遠に終わらないし、「ボニーが先かクライドが先か」のおしゃべりに決着がつくこともない。否応のない環境下で幾度も相手に二者択一を突きつけてきた彼らを待ち受ける運命の行く先がもはや選び取りようもないただひとつの破滅であることがくどくどしいまでに示されながらも、彼らの車は断じていかなる未来にも辿り着かない。

幕が閉じられ、BONNIE & CLYDEのロゴがふたたび映写される。あ、ここで終わり……で、いいの、か……? とばかりにややためらいがちに拍手が沸き起こる。あらかじめ見せられた、旅路の果てにとうぜん到達するはずだと思っていた光景が訪れることはついになかった。クライドとボニーの物語はその結末を奪われることによって宙空で静止したままロゴによってそっと封印され、ふたたびロゴが消える=封印が解かれることによって最終行の次に書かれる新たな一行として作品冒頭へと接ぎ木されるのだ。切断はかつて接続していたのだという事実を世界に想起させ、接続はかつて切断されていたのだという事実を世界から忘却させる。切断と接続という想起と忘却の営みを繰り返すということ。

スクリーンに映写されたものだけが「映画」と呼ばれるとするなら、スクリーンに映写されないものはただの回転するフィルムでしかない。装置から放たれる光はどこへも辿り着くことなく、ただ装置のなかで閉じ込められたフィルムがカラカラと回転しつづける。静止した齣が重ねられ時間方向に動きを擬装することもなく、並べられたままの状態で空間方向に流れ巻き取られていくだけ。

クライド・バロウとボニー・パーカーとして舞台に立つ彩風咲奈と夢白あやの並びは完全無欠としか言いようのないもので、驚くことにそれは実際に新雪組トップコンビとして組み合わされるまで想像もつかなかったものだが、同時にこの公演が終わっても彼らはなおコンビであり、これからクライドでもボニーでもない二人それぞれの役でいくつもの作品にともに並び立つのだという蓋然性のきわめて高い未来がまったく腑に落ちなかった。なんなら今日・このときだけ天の配剤により実現化しえた機会になぜか偶然居合わせてしまった……というわけではなく、公演初日から今日まで、そして明日から千秋楽まで何回も何十回も、それどころか今日自分の観劇したマチネ回の幕が閉じた数時間後にはまた作品の幕が開き、新たな一行目が書き付けられるのだという確定済みの事実さえきちんと飲み込めなかったくらいなのだ。2000人以上が同じ場所で同時に同じ舞台を鑑賞していることはじゅうぶんに認識していながらも、それでも自分だけが今・この瞬間のあのひとを見ているのだという感覚に陥ることはどうしたって止めようもないが、その作品として結晶化したひとつの窮極のかたちがこの『BONNIE & CLYDE』だったのではないか。バロウ・ギャングの隠れ家にまさに警察が踏み込んでくるその瞬間にクライド・バロウに訪れた、永遠と見紛うくらいに長く引き伸ばされたあの時間。

BONNIE & CLYDE』の濃厚なフィナーレが終わり、発狂寸前で留まりながらも一向に熱が冷めきらない頭の裏側を愛の時間という言葉がふっとよぎった。愛の時間。加藤幹郎は時間芸術である漫画が長らく空間芸術だと誤解されてきたのだと説き、徹底的に個人を対象にした表現媒体である漫画を読むという経験の共有不可能性を、その時間の一様でなさを愛の時間と呼んだ。何も映さない映写機にだってフィルムさえセットしておけばカラカラと回転して静止した齣が送られ時間が生じているように見えてしまう、あの類似パタンの矩形が視覚的一挙性のなかに一定の順番を伴って居並ぶ漫画特有の静止した空間に時間を与えるのは他ならぬ読者のまなざしである。そのまなざしは作者のコントロール下になく、読者は各々のリズムやスピードでもって、その関心や興味にしたがい齣ごとに進んだり、立ち止まったり、飛ばしたりしながら読み進めていく。その軌跡が愛である。

そういえば先日宝塚ホテルで催された稲葉先生お茶会ことSuu's Roomで稲葉太地が様々な事情により劇場での観劇がかなわない人々にとって配信の存在は福音であるということを入念に前置きした上で、しかしやはり劇場に足を運んでほしい、劇場で自分が見たいところを見るのが本当なのだ、ということを強く述べていた。やはり劇場においてはわたしたちは誰一人とて同じものを見ていないのではないか、同じ時間を共有しながらもしかしそれは同時に私秘的な時間でもあるのだ、むしろひとりきりになるためにこそ大勢になるのだ、という一見矛盾した感覚をどうしても抜きがたく抱いてしまう。

つまり観客が客席で舞台のだれかれを追いかけながらオペラグラスを上げたり下げたりする時間のことを愛の時間と呼びたいと思ってしまったのだった。継起的な時間性に支えられる表現形式である以上歌劇は時間芸術に分類されはするが、加藤幹郎が(わざわざ映画を空間芸術として引き合いに出した上で)漫画がそうであると言ったような意味で宝塚歌劇が時間芸術であるわけではない。観客がどこを見ようがどこを見まいが脚本通りに舞台は進行し、おおよそ規定の時間できっちり終わる。だが、それでも、つねに誰かのオペラグラスの中では、本筋とはほとんど係わりのない賑やかしのどんな下級生であってもトップスターを中心として組織され目下舞台中央で展開されている作品時間とはまったく異なる時間の流れを、ほんの数場面であれ生きているに違いないと確信することができる。なぜなら自分がそうだから。

BONNIE & CLYDE』はロゴが消え、ふたたびロゴが現れるまでのまたたきの物語である。それは現前と現前のあいだの時間であり、齣と齣のあいだの空間であり、映写装置に閉じ込められどこにも届かないフィルムの回転である。ボニー・パーカーが誰にも言わなかったことを、神に祈りを捧げるブランチ・バロウを、"あいだ"に生きる彼女たちのことを客席からわたしだけが見ていた。あらゆる者に等しく寄り添いながら、あらゆる者を等しく救わない神の愛によって内側から綴じられた『BONNIE & CLYDE』という物語の一部始終を。

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