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私をおいていかないで

私の父は50歳の若さで急逝した。
前日の晩は、いつもと全く変わりなかった。
当時、無職だった父はいつもと同じようにお酒を飲み、ずっとテレビを見ていた。
朝起きたら、すでに意識はなくそのまま亡くなってしまった。
脳幹溢血だった。

まさか、こんな形で別れることになるとは思ってもみなかった。
最後の言葉は、共に過ごした長い年月をひっくるめた重い重い「ありがとう」になるんだと思っていたけど、実際は普段と変わらない「おやすみなさい」だった。

父の突然の死は、私の心にちょっとした染みを作る。
ある日、突然、大切な人がこの世から去るかもしれないという不安を私に抱かせるのだ。
加えて、昔から男性には縁がないと思っていたのもある。
生まれたとき、祖父はすでに二人ともいなかったし、父は早くに亡くなり、義父との別れも早い。

「お願いだから、私より先に死なないでほしいの」

恥ずかしいことなのだが、いつしか私は親しい男性に必ずこう言うようになった。
父の死を知っている彼らは、その言葉が私のトラウマのようなものだとわかっているだろうけど、それでも戸惑うと思う。
返事に困るよね。ごめんね。

「大丈夫だよ、僕はあなたより先に死なない」

彼らは、そんな韓流ドラマみたいな(韓流ドラマみたことないけど)ことを言うキャラじゃない。

だいたい、私もそんなこと言われたら「そんなことわからないじゃないの。いいかげんなこと言わないで!」と拗ねるだろう。
「ほな、お前はどう言ってほしいねん!」と自分に言いたくなる。
我ながら、厄介で面倒だと思う。
私が彼らの立場ならおそらくスルーして、きっと距離を置くだろう。だって、こんな女、じゃまくさいもん。

でも、ありがたいことに、彼らは私のお願いにいつも丁寧な返事をくれる。
その声や眼差しや表情、彼らがまとってる空気に私はいつも安心するのだ。

キョウには何度も言った。
「私はあなたのお葬式には行かない。あなたが私のお葬式に来るのよ」とか。
キョウはいつも真面目に、それでいて彼らしい返事をくれる。

「私より先に死なないでね」とお願いしたら、「約束はできないな」と言われたことがある。

うん、確かにそうよね。
そんなの私たちにはわからないし、どうしようもできないものね。

「でも僕は死にたいなんて思ったことはないし、むしろ長生きしたいと思ってるよ」

キョウはとても冷たい感じのする人だけれど、彼の言葉はいつも優しい。

夫は「僕は凛子さんより長生きしたいな」と言う。

珍しいんじゃないかな。
奥さんより長生きしたいと思っている旦那さんは少ない気がする。

「僕は一日でも長く生きて、この世がどうなっているのか見てみたい」

そして、夫は宇宙エレベーターやらなんやら語りだす。夫は宇宙が大好きなのだ。
長生きして少しでも遠い未来を、人類の進歩をこの目で確認したいんだそうな。
悲観的な未来を予想する人が多い今の世の中、これからの時代にわくわくしている夫がとても眩しい。
私はそんな夫が大好きだ。

ヨーグルの返事は少し変化球ぎみ。

「凛子は僕が死んだあと、僕の著作権が欲しかったんじゃないのか?」

はっ! そうでした。

「どっちなの? 凛子は僕より先に死にたいの?」

ヨーグルが「ん?」と面白そうにきいてくる。
えーっと、えーっと。
焦る私に、彼が笑い出した。

「僕はまだまだ死ねないな。そうだな。〇〇〇〇の『×××』(伏字にしておきます。今も読み継がれている不朽の名作です)みたいな小説が書けるまで。僕が死んでからもずっと残るようなものを書くまでは」

「凛子にたくさん印税を残すためにもね」とニヤッと笑う。

父は亡くなる数ヵ月前、就職活動をしていた。
でもいたづらに転職を繰り返した50歳の父に、世間はとても厳しかった。
ある日、お酒を飲みながらテレビを見ていた父が、ぽつりと「あーあ、早く年金がほしいな」と、こぼれるように口にした。
人生に疲れた、もう休みたいといった父の顔に、私は胸が痛んだ。
何も楽しくない。何もしたくない。もうこのままずっとソファーに座って、お酒を飲んでテレビを見るだけの人生でいい。
かつて子供だった私を、いろんなところに連れて行き、いろんなものを見せてくれた、あの活き活きした父の面影はもうどこにもなかった。

父は、まだまだこれからなのに。

これから私が結婚して、弟も結婚して、孫ができて。
もうちょっと頑張ったら、お母さんと二人でのんびりできる時間ができて。
まだまだ楽しいことがたくさんお父さんを待ってるよ。
そう言えばよかった。
だから、そんなつまらなさそうな顔をしないで、って。

だから私は嬉しい。
彼らが「長生きしたい」と言ってくれて。
今の自分を、未来の自分を楽しんでいる彼らの姿に私は心から安心する。

私は、もうそれだけで嬉しいの。