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彼と喧嘩(前)

キッカケは些細なことだった。

ヨーグルから、編集者さんからのメールの報告をよく受ける。
こんな依頼がきたけれどスケジュールはどう?など、仕事にかんする相談をいろいろされる。
私と相談して決めたあとは、彼がその旨を返信する。

先日「メールの返事は私がしようか?」と提案した。
〆切に追われる中、メールする時間がもったいないように感じたのだ。業務連絡だから短いメールとはいえ、ほぼ毎日のこと。実は結構な時間をとられているんじゃないだろうか。
だから、これからは私が編集者に返信するから、あなたは書くことに専念しなさいと提案したのだ。

ところが、ヨーグルは悩みながらも「いや、そのやりとりは僕がする」と断ってきた。「僕には必要なことだから」と。

「そんなことになったら、僕は本当にただ小説を書くだけになってしまう。馬鹿になりそう。子供を賢くしたいからって勉強だけさせたら逆効果なのと同じじゃない?」

なるほど。一理あるわね。
「わかったわ。余計なこと言ったわね」と言ったとき、母のことを思い出して思わず笑ってしまった。

「何がおかしい?」と怪訝な顔のヨーグル。

「私の弟が馬鹿だってことにやっと気がついた」
「〇〇君は馬鹿じゃないだろ」
「馬鹿だよ。子供のころから勉強しかしてこなかったの。親が勉強以外のことを何にもさせなかったから」

先日、仕事で戻ってきた弟は実家に一泊したらしい。
翌朝、弟の姿をみた母、びっくり。
なんと弟の服に値札タグがついたままだった。

「あんな値札タグのついた服を着せられて、〇〇くんはちゃんと面倒みてもらえてるのかしら」

そう言って、義妹の悪口を言い始める母。
前々から、義妹にはよくない感情を抱いているのか、ちょくちょく私に愚痴ってくる。ちなみに私はいつも聞き流している。

でも、このときだけは心の中で思わず「あなた馬鹿なの?」と思わずにはいられなかった。言わなかったけど。

信じられるか?
40にもなった息子が値札タグをつけたまま服を着用し、それをみた70にもなる母親がタグを切り、息子に注意するどころか嫁が悪いと娘に訴えてくる。

情けない。
「〇〇くんが値札タグを切ればいいだけの話よ」とだけ返しておいた。
馬鹿馬鹿しい。

その話をヨーグルにした。

子供の時から、弟は特別だったの。
お金もないのに、むりやり私学に入れて京大に入れて。
その結果できあがったのが服の値札タグも切れない男だなんて世も末ね。
それを嫁が悪いと言ってしまう母に呆れかえったけど今ならわかる。
あの人たち、馬鹿なのよ。
弟も母も馬鹿なの。
弟は賢くて私は馬鹿だって、父に言われ続けてきたけど私のほうが弟よりずっと賢いわ。当然よね。生きてきた世界が、味わってきた苦労が違うもの。

お金がないと言われ続けてきた。
塾にも通わせてもらえなかったし、地元の公立の中学や高校にしか進学させてもらえなかった。
浪人はダメだと言われ、奨学金で進学し、大学卒業後は就職してコツコツとお金を家に入れ続けた。
足りないと言われたら、弟の学費だって負担した。

弟はそんなお金のない世界を知らない。
塾にも通わせてもらえたし、私立の中高一貫の名門校にも通わせてもらえた。浪人もさせてもらえたし、浪人のときには予備校にも通わせてもらえた。大学も院まで出してもらえたし、就職したあとはさっさと家を出た。
私が学費を負担したことだって知らない。母が「弟には絶対に言うな」と口止めしてきたからだ。

あの家の子供は弟だけだった。
私には見せることができる大人の事情が、全部、弟の前では隠された。

「弟さんは馬鹿じゃないよ。単に知らなかっただけだ」
「無知ほど愚かなものはないわ」

ヨーグルの顔が曇る。

「凛子、自分を馬鹿だと認識するのはいい。でも自分以外の人間を馬鹿だとやすやすと決めつけるのはやめなさい」

そうね。
お互い結婚して家を出て、随分と時間が経つ。私の知らない苦労だって弟にはあるだろう。子供のときの短い時間だけで判断できるものじゃないし、それこそ弟を馬鹿だと言い切ってしまうのは、父が私を馬鹿だと決めつけた愚かな行為となんら変わりはない。

「ごめんなさいね。たった一人の弟をそんなふうに言うもんじゃないね。聞いてて気分が悪かったでしょ」

ほっとしたようなヨーグルの顔。
でもそれはしばらくするとギョッとした顔になった。

私が泣いていたからだ。

                続く