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今まで見えなかったものが見えた

キョウと娘の勉強のことで話していたら、彼が中学生のとき、読書感想文で友達の「人間失格」の感想文の感想文を書いた、という話になった。

タイトルは「『人間失格』を読んでを読んで」

内容は、友人数人の「人間失格」の感想文から、それぞれの着眼点や考察などを比較したものらしい。この視点はこの人、独自のものよね、とか。
読書感想文の感想文が読書感想文になるのかはわからないけれど、面白い試みだと思う。
「人間失格」があらためて名作だと思わされた。

娘が小学生の時、娘と私は「銭天堂」という本に夢中になった。

アニメにもなったので、ご存知の方も多いと思うが、駄菓子屋「銭天堂」は、望みがある人の前に突如、店が現れる。
そして、店主の紅子が客に不思議な駄菓子を売るのだ。
その駄菓子を食べると願いが叶う。

でも、食べ方を誤ったり、愚かな欲を出すと恐ろしい結果を引き起こす。
「自己責任」という言葉が巷で溢れ始めた頃、これを読んだ私は「これが本当の自己責任!」と震えた。

さて、毎晩、娘に読み聞かせていた「銭天堂」。
ある日、書店に行ったら、娘が「買ってほしい」と手にしたのは「銭天堂」の新刊……ではなかった。
それまで登場してきた駄菓子の紹介、食べ方や効能などをまとめた図鑑のようなものだった。娘はそれを毎日毎日、嬉しそうに読んでいた。

物語の楽しみ方って人それぞれだ。
同じ物語だけど、私と娘では楽しみ方が全く違っていた。
娘は物語に登場する様々な駄菓子に、私はその駄菓子を手にした人間の喜怒哀楽に夢中になっていた。
名作というのは、読者にいろんな視点を与えるのだと思う。
面白い作品は、読む人間の想像力をかき立てるのだ。
中学生の読書感想文が比較論の材料になるほどに。
そして、その視点はたとえ違っても楽しみは共有できる。

ここ最近、ネットでは漫画のドラマ化にかんして多くの読者や視聴者の方々、いろんな作家さんたちが意見をあげている。

私もヨーグルと連日、この話をしている。

ヨーグルの小説はドラマ化や漫画化、オーディオブックなど、様々なメディア展開をしている。
確かにいろんな改変があった。
例えば、某国で翻訳されたときは「タイトルを変えたい」という話があった。直訳すると語呂が悪いので語呂が良くなるようにしたいとのことだった。
ドラマでも、原作にはないエピソードがあったり、キャラクター設定が変わっていたり。

そして、彼は全てにOKを出していた。

これは彼のポリシーなのだが、彼はその考えを自分のSNSで述べるつもりはないらしい。
だから私が書くわけにはいかないのだが、彼と話していると、ふと「世に出た小説はいったい誰のものなんだろう?」という疑問がわいた。

私と彼は、この疑問にたいする答えが少し違うのだと思う。
そして、答えは違えども、私も彼も間違っていない。

この先、この問題はどういう流れになるんだろう。
問題は一つではないし、考えなければならないこと、変えなければならないことはたくさんあると思う。
ただ(私は漫画をほとんど読まないので漫画についてはよくわからないが)少なくとも小説は、今後もたくさんの作品が映像化されたらいいなと思ってる。
今回の件で、映像化の流れに勢いがなくなるのは大きな損失だと思うから。

そう思うのは、ヨーグルの一言が忘れられないからだ。

「映像化されて、今まで見えなかったものが見えた」

いろんなものが見えるように、楽しめるように。
これからも、多くの美しい言葉が素晴らしい映像と結びつくことを切に願っている。

大きな感動が味わえるのを、私は楽しみに待っている。