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人間、いつ死ぬのがベストなんだろうな。

 私の推しロックミュージシャンの4割くらいは、もうこの世にはいない。そのほとんどが、出会った時にはもう故人だった。50年以上前に亡くなった人もいれば、つい2、3年前に亡くなった人もいる。いずれにせよ、彼らは既に星となっていた。

 これは仕方の無いことである。それでなくてもロックミュージシャンは早死にしがちなのに、21世紀も4分の1が過ぎようとしているこの時に60s〜90sに主に活躍した人たちを推してるのだ。健康に元気に生きている人の方がむしろレアだったりするかもしれない。

 だから、別にこれに関しては普段そこまで気に留めることは無い。落ち込まないことは無いが、「そっか……もう死んでしまってるのか……」程度に悲しんで終わりである。
(好きになった後に死んでしまった場合は別だ。もう生きる意味を失った、とこの世の終わりみたいに悲しむ。坂本龍一教授の訃報を知った時は、入社式前夜にも関わらず涙が止まらなくて、ベッドで枕を浮かせていた。)


 しかしたまに、なんのキッカケもなく、なんの前触れもなく、ふと聴こうとその曲を流した時に「もうこの人はこの世にはいないんだ……」と、急にそう覚えてすごく悲しくなる時がある。それがちょうどさっき、久しぶりに起こった。
 
 『愛しのレイラ』。言わずと知れた、デレク・アンド・ザ・ドミノスの名曲である。クラプトンのしゃがれた声とギターのオーバードライブ・サウンドがカッコイイ前半パートと、ジム・ゴードン作曲のピアノコーダが美しい後半パートからなるこの曲。2024年の1月3日、この曲を初めて聴いた時は、この2つの全く異なるセクションをどうやったらくっつけようという発想に至るのか、感動した記憶がある。

 すぐにこの曲が大好きになって、何回も何回も聴いた。同アルバムに収録されている他の曲も聴いた。バンドについても気になって、色々調べた。その中でジム・ゴードンの病院や、母親殺しのことも知った。刑務所に収監され、外の世界を見ないままそこで一生を終えたことも。「なんて悲しい人生なんだ……」とやるせなく悲しい気持ちになったが、上記の通り好きになったミュージシャンが既に死んでいることはいつものことなので、なんなら悲惨な最期を迎えていることも珍しくはないので、その時はそれ以上のことは思わなかった。

 それがさっき、散歩中にふと、久しぶりに愛しのレイラでも聴くか〜、とSpotifyを開いて流して、10秒ほど経ってドラムが曲に参加した瞬間、「ジム・ゴードンはもうこの世にはいないんだ……」と思って目に涙が浮かんできたのである。本当に急に、何故か分からないがすごく悲しい気持ちになってしまったのである。

 本当にこの現象は稀なのだが、以前だとドアーズやTOTOを聴いている時にも起こった気がする。若くして亡くなったジム・モリソンやジェフ・ポーカロ、マイク・ポーカロについて、普段はその死を当たり前に受け入れて曲を聴いているのに、なんでもないふとした瞬間に悲しくなってしまう。オチも何もない話だが、自分で疑問に思ったので書き記してみた。みんなにもそういう経験はあるだろうか。


 ロックと死は、切っても切り離せない関係にあると思う。「27クラブ」と始めとして若くして事故や自殺で亡くなってしまった人たちがたくさんいるのはもちろん、2000年代に入って病気や老衰で亡くなってしまった人もいる。そんな彼らの曲を2024年に聴いている私は、彼らの死もロックに組み込まれた芸術だと、思うことがある。死が芸術になり得るのなら、人間いつ死ぬのがベストなんだろうな。


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