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ジェンダーギャップという旗

あんたはジェンダーギャップ指数なんて言葉を聞くことがあるかい?

いわゆる男女間の格差みたいなものを数字に落とし込んだ数字なんだけれど、これって日本は調査対象の146カ国中、125位と言う低位に甘んじているって結果が出ている。

主に政治家や経営者に女性が少ないってのが足を引っ張っている感じの結果っぽいけれどね。

そんな中で、こんな記事を読んだんだ。

ざっくり要約すると、「女性政治家が増えない土壌には党内力学があるのだから、数字でキャップをはめないといけない」ってことを言ってんのかな?

この記事を読ませてもらって、俺はたまらないほどの違和感を感じたわけよ。

今回はこの俺が感じた違和感について考えてみる回だ。

ちっと女性の指示を受ける政治ってやつを考えてみようぜ。

「女性ならでは」と言う発言への否定

この記事を書いてくれている浜田敬子さんという御仁はAERAの元編集長をなさっていた方なんだね。

ワリカシ一貫してジェンダーに関する発信をなさっているヒトみたいだ。

で、この浜田敬子さんはこの記事の中で岸田総理の「女性ならでは」と言う発言に対して否定的な意見を書いている。

曰く、「女性ならでは」という言葉が今の世の中に対する「言い訳」でしかないってことらしい。

そして、「女性」という主語の大きな発言は個々の意見をないがしろにする発言だと切り捨てている。

これさ。
そっくりそのままお返ししたくなるのは俺だけか?

浜田敬子さんは「女性」よりも巨大な主語である「ジェンダー」を多用しているじゃんか。

個々のスキルや意見を重要視しなさいと言うのであれば、そもそも議員の女性比率と言う数字を追っかけると言う行為は明らかに矛盾したものに感じられないか?

政治家ではなく政策を考える必要性

例えば片山さつきさんという政治家がいる。

彼女の政治的な活動を眺めていると、どうしても「ん?」って違和感をおぼえることが多い印象だけれども、個別の案件については同意できる意見を発言することもある。

例えば鈴木俊一さんという政治家がいる。

どうにも彼が何を実現しようとして政治活動をしているのかがさっぱりわかんないんだよね。
実績ということで公表なさっているご自身のページでも「〇〇という役職に付きました」的なことが羅列されている印象だ。

https://suzukishunichi.jp/result

いや、そうじゃねえだろ。
オマイさんは具体的な政策として何を通したんだ?って言いたくなるやつ。

俺が思うにね。

「女性ならでは」の発言が問題だとするならばだよ。
個々の政治家のジェンダーという属性に着目するよりも政治家が実現しようとしている政策に目を向けないと筋が通らない気がするんだよな。

女性議員の数を増やすと言いう政策はあっても良いかもしれないけれど、少なくとも一丁目一番地の喫緊の課題ではないと思う。

なぜか?
だって今の日本で「幸福」と感じているヒトは少ないけれど、「不幸と感じているヒトも少ないなんてデータもあるらしいしね。

女性議員は国民を幸せにするか?

考えてみたんだけれど、女性議員が増えると国民の幸福の総量は増えるのか?
もしくは国民の不幸の総量は減るのか?

ぶっちゃけ、それはその政治家が実現する政策によるとしか言いようがないじゃんか。

まあ、これはあるべき政策の姿と言う要素と、それを実現するための手段って要素があると思うんだ。

おそらく、前者(あるべき政策)は調査なり勉強なりの活動を経て獲得できるのかもしれない。
ただ、後者(政策の実現手段)は連綿と紡ぎ続かれてきた人間関係という歴史を背景に動かざるを得ない要素がある。

いわゆる地盤・看板・カバンってやつだ。

その現実に目を向けた時に俺たちは何を見て、どんなことをすれば良いのかって課題が見えてくるよな。

少なくとも「あるべき政策」ってものについてですら、俺たちは全容を把握なんて出来てはいない。
おそらく多くの政治家のヒトも同じだろう。

なので目に見える「政策の実現手段」の強化に走ってしまう。

選挙のための活動にしか見えない活動をしている政治家のヒトを見ると、ものの見事に目的と手段が入れ替わっちまっているって印象が強い。

同じ印象をジェンダーギャップ指数を向上させるべきと言う意見にも感じるんだ。

ジェンダーギャップ指数の向上がなんで「幸福の最大化」や「不幸の最小化」につながるって言い切れるんだ?って話だと思うわけよ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちが政治に求めているのは「目的」か?それとも「手段」か?

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