命のことを考える
あんたも命について考えることってあるかい?
親族について考えると、自分の親の世代は健在で、俺と妻の両親は健康に時を過ごしてもらっている。
まあ、健康って言ってもこの間は俺の父親が大きな手術をしたり、年齢相応に前には出来ていたことが出来なくなる様子はワリカシ感じていたりはするけれどね。
祖父母はだいぶ前に他界してしまっているんだけれど、やっぱりその生命が失われていく様ってのは、記憶に張り付いている部分もある。
そして自分自身も数年前に比べて、ベラボーに体調が悪いって感じることが増えてきた。
今回は命の残り火について考えてみる回だ。
ちっと俺の覚悟を決めるのに付き合ってくれよな。
両親の衰え
俺の両親は終戦の年の生まれだから、80にもう少しで手が届くって状況なんだ。
当たり前だけれども、俺がガキンチョの頃の両親の印象に比べると出来ることが制限されてきた感じが出てくる。
それでも、アグレッシブに旅行に行ったり、友人たちと遊んだりとしている様子なので、まだまだ「元気な御老体」ではいてくれる感じだ。
でもその衰えを見ると、やっぱり思うわけだ。
寂しさと、恐れを。
物理的に自分が介護に携われる範囲ってのは限定的にならざるをえないってのが現実なわけだけれども、かと言って経済的に出来る範囲もまた限定的だ。
そう言うわかりやすいところは脇においておいても、怖いんだよ。
命がすり減っていくって状況そのものが。
自分の命を考える
で、あらためて自分のことも考えてみる。
ここ数年で明らかに体力が落ちて、「ああ、俺は死にかけているんだな」って感じることが多くなった。
俺自身が死んじまうことそのものは、俺にとってはそれほどの恐怖にはならない。
もっと怖いのは「死にかけ」がどんだけ続くのかってことだ。
その時に家族にどれだけの負担をかけてしまうのか。
どれだけの苦しみが俺に襲ってくるのか。
どれだけの不安を周りのヒトに与えてしまうのか。
想像しても、うまく像を結ばないくらいに怖いんだよ。
自分が今の自分に比べて出来ることが減っていき続ける未来が。
成長する自分を考える
でも、怖がってばかりいても怖いだけなので、明るい未来ってのを想像しないと大人はいけないよな。
確かに体力的な衰えってのは日々の生活の中で俺に決定的に感じられてはいる。
でも、俺はまだ変化出来ているとも思う。
数年前とは消費税に対する考え方も変わったし、戦争に対する考え方も微妙に変化している。
いろんなコンテンツの楽しみ方も変わってきていると思うし、仕事の内容だって激変している。
まだ、俺は今の俺を超えていけるはずだ。
で、どうする?
超えてどこに行くんだ?
そこまで考えてはたと思う。
そうなんだよ。
俺はまだ、俺の命の終着点を想像出来てない。
どういう様に生きて、どういう様に命を終えたいのかを想像できてない。
まるでアンパンマンだな。
命の終え方を考える
俺の弟が医者なので、命を終えるヒトたちの話を聞くことがたまにある。
緊急手術で開頭手術をしてみたものの、腫瘍が進行しすぎていて、なにも出来ずに手術を終えた10代後半のヒトの話も聞いたことがある。
そのヒトはその時点では自分も他人も何をどうしても命が奪われる状況になっていたってことになる。
しかも場所が場所だけに、まともに思考をすることだって難しかったかもしれない。
そう言う現実は実際に目の前に現れることだってあるってことだ。
幸いオッサンになるまで生き延びることが出来た俺だけれど、これから先はどうなるかわからない。
それはヒトが生き物である以上は誰だって同じだよな。
そう考えていくとやっぱりこの結論に至る。
「今、ここを大事にする」
まるで示現流だな。
でも、自分が影響を及ぼせるのは過去でも未来でもなく今だもんな。
今、自分は何をすべきか?
今、自分は何をしたいのか?
改めて聞かれたら、なかなか答えが出ないやつだ。
ならせめてさ。
「何をしたいか」だけは答えをもっといた方が良さそうだよな。
なあ、あんたはどう思う?
今、俺たちは何をしたいんだろうな?
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