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考える意味

あんたは自分への批判ってのをどうやって受け止めている?

息子に言われたんだよ。
「お父さんの話はあっちこっち行って要旨が分からない」って。

いやまぁそうかもしれない。
っていうか、息子が要旨なんて言葉を使えるようになったことが絶妙に嬉しい。
でもそんなんで浮かれていることで得られるものもない気もする。

そもそもが、世の中はそんなにわかり易いもんじゃないから、それをそのままに表現すると実にわかりにくいものになるってのは道理だとも思う。

でも世の中で起きているありとあらゆる出来事をつなげて考えるってのは意味がないこととも思えない。

なんでだ?

今回は俺の思考の方向性について考えてみる回だ。

まあ、あれだ。
おれのいじけっぷりに付き合ってくれよな。

複雑な世の中の言語化

まずだ。
世の中ってのは実に難しい。

政治も経済も、思想もコミュニケーションも。

何一つ簡単なものは無いと思ったりもする。

消費税のことを考えると、その制度としての複雑さもあるし、制度がもたらしている課題みたいなものも感じる。

一言で子育てなんて言っても正解があるわけじゃないから、みんなしてものスゲー工夫をしているってのを見る。
ってか俺もしている。

その難しさとか課題とかについて「どうしたもんだべ?」って考えてみた結果を行動や言語化って形にしてみようとする。

それでも、納得行く形になることはほとんど無くて、大抵は妥協の産物ってやつを作り上げることになる。

それでもさ。
「世の中は複雑なんだよ」なんて言葉で終わらすのって嫌じゃんか。
我慢ならんじゃんか。

なぜって?
そんな言葉で締めくくったら、俺たちは永遠にわかり合えないって認めているようなもんだと思わんか?

複雑なことを言語化するあがき

で、俺としては諦めたら試合終了だって安西先生が教えてくれたので、この複雑怪奇な世界ってのを言葉にするってのを続けてみようと思うわけだ。

何が複雑かって言えば、そもそも課題認識がヒトによって千差万別だってことだよな。

若者たちはもしかしたら「何が自分のしたいことなのか分からない」って感じの自己認識があまり定まっていないがゆえの悩みを持っているかもしれない。

俺みたいなオッサンはどうやっても世の中の変えられない部分ってやつについての実感に押しつぶされるようなこともある。

いろんなヒトがいろんな立場で多くの課題を抱えながら生きているってのは現実として存在しているものだと思う。

でも、多くのヒトはこう思うだろう。

「その課題を誰かと共有する意味なんてあんのか?」

課題を共有した所で、その相手が解決してくれるわけじゃない。
なら、そんなの意味ないじゃないか。

そう思うのは不自然な話じゃないよな。

言語化する意味

じゃあ、自分が抱えている課題を言語化することは意味のないことなのか?

否。
断じて否だ。

自分の抱えている課題を言語化することによって、一番納得と言う利益を得られるのは誰か?

自分なんだよ。

俺たちは実に多くの「納得出来ないこと」を抱えながら生活していると思う。
そして、その多くの事柄を「そんなもんだよな」って思って過ごしていると思う。

それってさ。
言い換えたらこうならないか?

「考えることを放棄している」

ってさ。

確かに回答のない課題ってのは存在していると思う。
どんだけ考えても納得行く答えにたどり着かないような課題。

LGBTQしかり、日本の政治のありようしかり、家族としてのありようしかり。

正解どころか、そもそも俺がどいう言う状態なら納得行くんだってことすら言語化することが難しいような話だ。

でもさ。

その難しさから逃げて俺たちが得られるものってなんだ?

たぶん「不満」だけじゃないのか?

つまり課題から逃げ続けたら「不満」にまみれた苦痛だけが俺たちに残されるってスンポーだ。

こんなん、だれも望まないべ?

ならどうすんのか?

考え続けるしか無いんじゃないか?
たとえそれが誰に理解されることがないとしてもだ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは誰にも理解されないかもしれない思考に自分を捧げる事ができると思うかい?

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