不特定多数の感情が満ち溢れる世界
あんたもネットやらテレビやらを眺めていると、実に多くの「嫌われ者」がいるって感じるかい?
西野亮廣さんに山本太郎さんに池上彰さんに佐藤優さんにと枚挙にいとまがない。
この嫌われ者のヒトたちに共通点みたいなものを見出そうとしても、実のところよくわからない。
あえて言うならば、きちんとキャラを全面に出しているヒトってことなのかもしれないけれど、キャラを全面に出していても嫌われ者にはなっていないヒトも普通にいると思う。
あれか?
もしかして嫌われ者に共通点があるんじゃなくて嫌うという感情に共通点があるのか?
今回はこの嫌うという感情について考えてみる回だ。
ちっと、俺たちの感情について考えてみようぜ。
嫌いなヒトって誰か考える
例えば、俺が嫌いなヒトってどんなヒトだろう?
……ぶっちゃけ、有名人で嫌いって感情が湧き上がるヒトってあんま思いつかないんだよな。
意見がまるで違うぜ!ってヒトはいっぱいいるけれど、それで「嫌い」にはならない感じ。
例えばフェミニズムって考え方がある。
女性を大切にしようね~って考え方。あってる?
その考え方そのものは俺自身は違うと思ってたりする。
だって、男女ともに大切にするのが本筋だし、女性が経済面で冷遇されることが多いから、そこはケアしなきゃだけれど、じゃあ男性が経済面で冷遇されているのは問題ないのかっていったら違うじゃん。
でも、フェミニズムを主張している実際のヒトの話を聞いていても、そのヒトのことを嫌いにはならないんだよな。
だって、自分とは違う意見に至った理屈がそのヒトの中にあるってのがわかるから。
そこで考える。
あれ?俺って誰を嫌いなんだ?
考えてみると直接コミュニケーションをしているヒトにしか嫌いなヒトっていないな。
嫌う原因を考える
そう思うと、確かにちょっと理屈が通る気がする。
要するに俺は直接攻撃をされないと、相手を嫌いにならないのかもしれない。
そう考えるとなんどか取り上げさせてもらっている木村花さんは生前、実に多くのヒトを嫌いになったんじゃないかって思う。
そりゃあ、不特定多数のヒトから攻撃されたら世の中の多くのヒトが自分を嫌っていて、自分もその不特定多数の「誰か」を嫌いになっちまうと思う。
具体的なヒトを特定しない状態での嫌いという感情は実に厄介っぽいよな。
直接自分のTwitterに攻撃をしてきたヒトがいたとして、木村さんの場合はそこに反論してなんてのをできる量ではない攻撃が来ていただろうし、その攻撃の量の多さが攻撃を実際にはしていないヒトの中にも自分を嫌っているヒトが多数いることを想像させちまう。
そうなったら、もう世界中のヒトが自分を嫌っているんじゃないかなんて思い込んじゃうヒトもいるだろう。
こいつはヘヴィーだ。
ここで考えるのは、木村花さんを嫌っていたすべてのヒトが木村花さんから攻撃されていたわけじゃないってことだ。
マスメディアを通じて不特定多数のヒトに伝えられた木村花さんの感情。
そこに不特定多数のヒトが嫌いという感情を沸き起こさせたってことなんだよな。きっと。
あれか。
嫌いって伝染するってことなのか。
感情が伝染するってこと
確かにTwitterとか見てると、嫌いって感情を込められた文字が簡単に拡散されている。
その結果として、もともとは存在していなかった嫌いって感情が広がりやすいって状況が作られているってことなんだろうな。
これってきっと好きって感情も同じ様に拡散されているんだろう。
これってさ。
拡散されるのは感情がメインで理屈は拡散されている速度は感情に比べるとめちゃくちゃ遅い感じってないかい?
Twitterの文字数が少ないからだとか、色んな理由はあると思うんだけれども、本質的に理屈を表現するコストが高いってのがあると思うんだ。
例えば消費税やだよね。って感情はすぐに表現できるけれど、消費税が抱えている問題を説明するには、いろんな数字やら歴史やらを紐解いた上で自分の主張を表現する必要がある。
これって、誰にでもできることじゃない。
そら拡散しないわな。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちはSNSを生活の一部にすることで、見知らぬ他のヒトの感情に自分の感情を引っ張られる世界観で生きるしか無いんだろうか?
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