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多様性を受け入れる状態を考える

あんたも多様性って言葉を日常的に聞くことが増えてきているかい?

いわゆるLGBTQの価値観ってのが取りざたされるようになってきてから、そういう性的マイノリティについては嫌悪する感情を持つことそのものが差別的だって意見が一般化してきていると思う。

そういう意見は否定する感覚は俺のなかにもないんだけれども、ちょっと引いた位置でそういう意見を眺めてみようとしてみると、ちょっと違う光景が見えてくる。

今回は、多様性ってものに対する俺たちの感情について考えてみる回だ。

ちっとむずかしい話だけどもさ。一緒に考えてみようぜ。

性的マイノリティを受け入れるべきという「感情」

いわゆる性的マイノリティとされているLGBTQのヒトたちについて、その人たちが虐げられているって話を聞くと、多くのヒトが「そんなんダメじゃん」って感情を持つと思う。

それと同時にそういう性的マイノリティに分類されるような感覚を持っているヒトが目の前に現れただけで、言葉にできない感情が自分のなかに沸き起こるヒトも多くいると思う。

どちらも感情なので、その感情が沸き上がることそのものについては俺たちヒトという生き物は抑制することは出来ない。

出来るのはあくまで、その感情をどう表現するのかって行動の部分だけなんだ。

瞬発的に自分とは違う性的嗜好のヒトを認識したときに、「うお!」って感じちゃうことそのものは抑制できない。
感情は生き物としてのヒトの性質なので、その感じてしまうことそのものを否定してもなにかを産み出すことはないってわけだ。

それと同時にその「うお!」って感情に従ってストレートにそのヒトを否定する「行動」を見せるヒトに対しても俺たちは「うお!」って思うわけだ。

そらそうだろ?
あんたはそう言うかもしれない。

でも、改めて考えてみる。
この二つの「うお!」はなんで片っ方が世の中に受け入れられて、もう片っ方は世の中に嫌悪されているんだ?

そのことをキチンと理屈で説明しなさいよって言われたら、俺たちはそれをうまく説明できるんだろうか?

性的嗜好という感情

もうちょっと極端に考えてみる。

例えば小児性愛という性的嗜好があるわけだ。
ロリコンってやつだな。

一般的にはこの性的嗜好は世間に受け入れられていない。
そして、受け入れるべきという意見も見たことがない。

おそらくは子どもは守らないといけないっていうヒトという生き物が根本的に抱えている課題に対して一部抵触するという感覚が直感的に感じられるからだと思う。

おそらくその感覚は俺たちヒトという生き物が生存していく上では効果的に働いている感覚だとは思う。
子どもの頃に性的な行為を自分が抵抗することが出来ない大人から強要されたら、最終的にそのヒトが子孫を残す可能性を減らすことにつながる物語は容易に想像が出来るしね。

でもさ。

それってすげぇエゴじゃね?

だっていわゆる同性愛では子孫を残すことは今のところ出来ない。
だったら、子孫を残す可能性を減らすって価値観だけで小児性愛を否定するってのは考えてみるとおかしな考え方なのかもしれない。

なに?
子どもの精神を傷つけるかもしれない感覚は疎まれるべきだって?

たしかにそれはそう俺も思う。

その上で、こうも思う。

いや、大人同士の性愛行動でも、相手を傷つけるケースって普通にあるじゃん?
男性が女性を傷つけることもあるし、女性が男性を傷つけることも普通にある。

それと何が違うの?って問われたとき。

俺たちはなんて答えることが出来るんだろうか?

いや、あれよ?
俺自身はロリコンって感情に従って子どもたちを性の対象にするヒトがいるってことは結構身の毛もよだつくらいに嫌なことだって感じているんだよ。

それでも、シンプルに「違いを客観的に示せ」と言われたときにうまい言葉が見つからないって話だ。
大人同士の性愛行動で傷ついたヒトに「あなたは大人なんだから」って言える理屈をだ。

究極的にはだ。
この性愛行動のもとになる「感情」は俺たち自身は制御することが出来ないって現実があるのに、それに世論という名のルールをつけて分類しているってことにならんか?

その世論っていう「虚構」はいったい何を産み出すために存在しているんだ?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは本当の意味で多様性ってのを受け入れようとしていると思うかい?

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