見出し画像

過去のいじめ加害者をいじめる行為

あんたも小山田圭吾さんが過去にいじめをしていたってニュースを見たかい?

このニュースを見て、率直な感想としてどんなふうにあんたは感じた?

俺としては「このニュースもいじめじゃね?」だったんだよね。

小山田圭吾さんって1969年生まれだよ?
そのヒトが学生の頃の話なんだから少なくとも30年以上前の話だよ?

その方がオリンピックで役割を担うからって言って、そんな昔のことまで掘り起こされるんだよ?

そう言うのって「監視社会」って言うんじゃないのかね?

今回はあらためて「いじめ」って行為について考えてみる回だ。

まあ、あいも変わらず結論の出ない話だけれども、付き合ってくれよな。

「学校」という集団の特殊性

まずはいじめって言うと会社とかの組織でも普通に起きる話ではあるけれども、やっぱり一番起きる現場っていうと学校だと思うんだよな。

会社に入ってからだと、わかりやすく結果ってやつがついてくるから、個人の個性に対する感覚よりもシンプルに評価って方が先に意識されると思うわけよ。

いじめってされる方もする方も終わりがないから、メチャクチャ労力を要することだよな。

なので、社会に出てからはそんなことに労力を振り向ける余裕があんまりないってのは誰でも同じだ。
だから大人になってからの具体的な人間関係における「いじめ」ってのが目立たなくなっているって理屈なんだと考えているんだ。

ところが学校は違う。
成績とかはあるかもしれないけれども、成績ってのが学生たちの間で価値観として共有されているかって言うと、結構微妙だってのは避けがたい現実ってやつだ。

しかも会社と違って、学生にはその集団に入る明確な動機がない。

公立学校の場合は、「たまたまそこに住んでいた」ってだけの理由で集団にさせられる。

目的も何も共有していない集団が価値観の共有できる範囲で塊になっていくマーブル模様の人間関係になるってのは、もう必然なんだよな。

そして、そのマーブル模様の少数派になったヒトが集団から異端視されるってのは、ヒトという生き物が協力によって世界を生き残ってきたことを考えると、DNAレベルでの必然とすら感じられる。

つまり「いじめ」ってのは学校ってシステムが抱えるシステムエラーの一つなんじゃないかって思うんだよな。

「いじめ」の合法性

そして、この「いじめ」の厄介なところとして、もう一つあるのがその「合法性」だ。

もちろん、暴力をふるったり物を盗ったりと言った明らかに違法な方法でいじめが行われることもあるとは思う。

でもさ、例えば単純に「無視する」みたいないじめもあるわけじゃんか。

「無視する」って行為そのものは何らかの法律に違反するものじゃないんだけれども、社会の中で生きるというのがヒトという生き物の性質である以上は無視されるってのは、メチャクチャ厳しい制裁なんだよな。

でもその行為を「罪」とする法律はない以上、その行為を制裁することは情治国家まっしぐらになっちまう。

法による支配が俺たちが得た大きな価値なことは間違いがないんだけれども、それではいじめというシステムエラーを防ぎきれないケースがあるってわけだ。

小山田圭吾さんへの批判

でだ。

具体的に小山田圭吾さんが学生時代にどんないじめをしていたのかは追っかけられていないんだけれども、仮に違法性のない方法だったとしたら、小山田圭吾さんへの批判って、「法の支配」に逆行する行為だと思うわけよ。

30年以上前の話だから正確にどういう行為があったのかって追いかけるのが難しい部分もあるだろうし、俺たちのように小山田圭吾さんと直接の人間関係を持っていないヒトや警察のように調査を仕事にしているヒトではない限り、その事実関係を調査するのは筋違いってやつだよな。

しかも小山田圭吾さんの謝罪は「不快にさせて申し訳ない」って話になっている。

いや、どんだけ感情に支配されているんだよって話じゃんか。

仮に過去のいじめ行為が違法性のある行為だったとしても、それを裁くのは法であって俺たちじゃないはずだよな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはもしかして、また木村花さんの悲劇を繰り返してしまうところなんだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?