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恐れを分析して共有する

あんたも緊急事態宣言の中、自粛って言葉を日常的に感じながら過ごしているかい?

東京を始めとして多くの都道府県で猛威を奮っているデルタ株。
毎日その関連のニュースを見ない日はないって言っても過言じゃない。
いい加減、ねぇのか?マシな話はって思いながら、とりあえず感染状況なるものをチェックする毎日だよな。

大分減ってきたとは言え、ほんの半年前の状況と比べると感染者数の桁が変わってきているわけだけれども、その状況への対策はワクチンと自粛の二本立てってのは全く変わっていない。

ワクチン供給の状況が半年前に比べたら良くなっているのが救いってやつかもしれないけれど、自粛ってことに対しては「ホントに意味あるのか?」って思うヒトが増えているってのも事実だと思うわけだ。

今回はウイルスを始めとする感染症の歴史を調べてみようって回だ。

まあ、ちっとは歴史から学ぼうって考えてみても良くないか?

人類は多くの感染症と戦ってきた

今までヒトは実に多くの感染症の被害を受けてきている。

COVIT-19は俺たちの日常の情報になっているから、あえて説明するまでもないけれども、鳥インフルエンザだの結核だのペストだの。

その都度、俺たちヒトはその恐怖におののいていたって歴史があるわけだ。

例えば感染症に対する古い記録の一つに旧約聖書がある。

旧約聖書のレビ記13章にはこんな記述がある。

もし、皮膚に湿疹、
斑点、疱疹が生じて、皮膚病の疑いがある場合、その
人を祭司のところへ連れて行く。祭司は、患者を施設
に留め置く
出典:旧約聖書

症状から見て麻疹っぽい感じだよな。
この時点で感染症患者を隔離するって方法がとられていたという記録として受け取って良いんだと思うんだ。

ぶっちゃけ、今の自宅療養だったり宿泊療養とやってることは基本的に変わっていないってわけだ。

これって結構意外じゃないか?
何世紀も前から感染症に対しては「隔離」って方法がメインだってことだ。

それを考えると感染拡大に対して政府が「自粛」の方針を変えずにいるってのは実は自然なことって言うか、それ以外に方法が無いってのが現実ってことなのかも知れない。

現在と過去の違い

とは言え、旧約聖書の時代と現代では明らかに違う物がある。

ヒトの行動範囲の広さだ。

江戸時代を例にとると、ヒトが旅をするときにはどうやら1日あたり40kmも歩いていたらしい。

結構えげつない距離を歩いていたんだな。

ただ、これは旅をしたときの距離で、日常的にそれほど歩いていたわけじゃないとは思う。

じゃあ、今の俺たちはどのくらい移動しているのか?

日本の平均通勤時間は1.19時間程度らしい。
ざっくり往復2.4時間を移動に費やしている。

在来線の電車の速度を60km/hだとして、乗り継ぎとかのタイムラグを加味して平均20km/h位で計算してみると、実に毎日48kmの移動をしているってわけだ。

しかも、江戸時代では旅をするってのは一大イベントで、そんなに日常的に行われるものじゃない。

それだけヒトの動きに違いがあるのに、とられる対策は「隔離」って言う方法しか俺たちは手に入れていないってわけだ。

感染症を知り続けること

そう言うふうに歴史と現状を見るにつけ、思うことがある。

俺たちは感染症と今までも共にあり続けてきたし、これからも共にある続けるってことだ。

違いがあるとすれば、その感染症に対する分析結果という情報を今という時代では一瞬で共有する事ができるってことなんだと思うわけだ。

感染症の正体がわかっていれば隔離以外の方法も出てくるし、COVIT-19については飛沫感染ってのがわかっているから、マスクやらソーシャルディスタンスやらって方法がとられてきているわけだしね。

ただ、この情報ってのは実に厄介だ。
その情報を手にすることで、感染拡大を抑制出来るって側面がありつつも、極端な自粛ってのは別の意味でヒトの生活を脅かしてしまう。

あんたの街でも店を畳んでしまった飲食店を散見する状態だろ?

対策をとることで、経済的に悪影響が出る。
今度はそう言う新しい恐怖と立ち向かっているってのが今という状況なんだろう。

なら俺たちはどうすれば良いのか?

きっとその新しい恐怖についての情報を分析して共有していくってことしか無いんだろうな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは続けざまに起き続ける恐怖を分析し続けることが出来ると思うかい?

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