聖書の「約束」と「全知全能」
あんたは聖書ってものに触れたことがあるかい?
俺自身はちょびっとだけ物を手にとって読んだことがあるんだけれど、あの書物の中で描かれているいろんな出来事や教訓めいたことってのは、実に多くの違和感を俺たちに与えてくれているって側面があると思う。
例えば、バベルの塔って話があるじゃんか。
ものすごくざっくり言えば、ヒトが集まって天にも届くようなデッカイ建物を当時の新技術を駆使してこさえようとしたのを、神様がよろしく無いってんで、ヒトが当時持っていた最も強力な能力である「共通言語」を奪い去ったって話だよな。
こう書いただけでも、この神様がやったことの帰結として現在の世界で起きている様々な悲劇が起きていると感じられるじゃんか。
このことをさ。
「ヒトの傲慢」を戒めるための教訓の物語として、俺たちは受け止めているわけだ。
悪いのはいつだってヒトだってことに見えるんだよな。
今回はヒトと言う生き物にとっての善悪ってものを俯瞰できるか考えてみる回だ。
ちと、俺たちの生きる指針なるものを眺めてみようぜ。
聖書と言う「約束」の物語
キリスト教もその前身であるユダヤ教も、実に多くの「神との約束」に彩られた物語を前提として成立しているってのがあると思う。
アダムとイブの「知恵の実」の話も「食べるな」って言うシンプルな約束をヒトが破ったことで、ヒトは原罪なるものを背負う事になっている。
ぶっちゃけて言えば、神様は神様が認めた情報以外に触れるなとヒトと「約束」したわけだ。
なんでヒトは神様の許した情報以外を取得してはいけなかったのか。
ざっとネットを眺めてみると、そもそも「禁止」するという約束によって、神様がヒトの信仰心を試したみたいな解釈もあるみたいだね。
他にも「約束」は色々ある。
有名所の「モーセの十戒」だったり、「ノアの契約」だったりね。
ノアの契約ってのはこんな感じらしい。
(1) 生めよ。ふえよ。地に満ちよ。
(2) 神は、動物の中に人への恐れを入れた。
(3) 肉食の許可
(4) 肉食における血抜き
(5) 死刑制度
何かよくわからん契約だな。
べからず的な要素は血抜きをしなさいってやつくらいか?
あ、死刑制度もそうか。
どうもノアの契約では計画的な殺人に対しては死刑をするって話になっているらしい。
どうも、この契約にも違和感が止まらない。
なんでそれまで許していなかった肉食を突然許したの?
洪水で生き物自体の個体数が劇的に減っている状況の中で、動物を食べるってのは、あんまり効率的とは言い難い気もするんだ。
でも、それはそれまで肉食が浸透していなかったって前提で考えているからなのかな?
バベルの塔はなぜダメなのか
で、そう言う約束で固められたヒトと神様の関係で、圧倒的な違和感を放っている話。
その一つにバベルの塔の話があると思う。
バベルの塔って言えば、デッカイ塔を作ったら神様に怒られて言葉が通じないようにされたって話だよな。
言葉が通じないようにされるとか、ヒトと言う生き物の最大の武器である「一致協力する力」を根こそぎ破壊するような行為だよな。
なんつーの?
屈強な戦士のアキレス腱を切り落として、日常生活すらままならないような状況に追い込むような、美しい容姿をもったヒトの生皮をはぐような。
ヒトが持つ価値を奪うって行為を模範であるはずの神様がしているんだよな。
で、当然その行為には正当性と言う後ろ盾が必要になってくる。
でも、バベルの塔の時点で神様と取り交わされていた約束って「ノアの契約」くらいなもんだろ?
バベルの塔の建設はどの約束を破ったってことになるんだ?
何も破ってないよな。
あえて言うならアダムとイブが破った「知恵の実」を食す行為と同等だってことなのか?
こう考えてみるとさ。
聖書における善悪ってのは「神様を信仰できるかどうか」ってことに集約されている感じがするんだよな。
日本における信仰
で、俺たちが住んでいる日本。
まあまあな数のキリスト教信者と呼ばれるヒトもいる。
ただ、日本においては少数派だってのは現実としてあると思うんだ。
日本における「カミ」ってのは、世界そのものであって、そこには善悪のような恣意的な意図みたいなものはあまりない。
いわゆる創世神的な位置づけであるイザナギ、イザナミについても、実に不完全な人格として描かれている。
完全無欠の全知全能なる存在ってのに違和感を覚えるのは、こういう文化的背景ってのがあるのかもしれない。
で、聖書における神様ってのも、考えてみると全知全能なる存在とは程遠い感覚がある。
そもそも「約束」ってのを前提にしている風を匂わせておきながら、ぶっちゃけ「気に食わないから」って理由でヒトの力を奪い去るようなことをする神様だぜ?
全知全能なる存在って感じろってのが無理な話に見えてくるじゃんか。
そもそも、その「全知全能」なる感覚の違いが世界で多くの紛争を生み出しているってのもある気がする。
そう考えるとさ。
善悪に頓着するってのは、もしかすると俺たちがお互いを否定するって感覚への執着の象徴なのかもしれないな。
なあ、あんたはどう思う?
この完全で不完全な世界でヒトはどうやって「互いの言葉」を取り戻すことが出来るんだろうな?
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