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「物語」と言う呪い
あんたにもままならんと思うことってあるかい?
連日のように伝えられてくる戦争のニュース。
ウクライナ戦争にイスラエル内紛だ。
しかもイスラエルでの揉め事は今に始まったことじゃない。
建国の成り立ちそのものから実にきな臭い。
いつ何時、今回のような大規模な戦闘が始まってもおかしくなかった。
歴史を紐解いていけば、「あれがよくなかった」「これをしていればよかった」と言うようなことは枚挙にいとまがない。
でも、その過去を変えられたとしても俺たちヒトが争うと言うことはやめられないんじゃないかとも思うんだ。
なぜって?
それこそ歴史が闘いの記録になっている事がそれを証明しているじゃんか。
今回はヒトが争うことについて考えてみる回だ。
あんまり気持ちのいい話じゃないとは思うけれど、ちっと考えておこうぜ。
ヒトと言う生き物は何をして生き延びたか
歴史の個々の案件を取り上げる前に、一つ前提にして置かなければならないことがあると思うんだ。
それは俺たちヒトと言う生き物は実に大量の生物を絶滅させてきたと言う状況証拠に基づく推論だ。
今も環境問題を始めとして多くの生物が絶滅し続けている。
それはヒトが自分たちが真っ当に生きていくための環境を作るために生態系を始めとする様々な改造を世界に施し続けてきた結果だ。
そもそもが狩猟採取生活に最適化されている生き物であるヒトはありとあらゆるものを狩りをしたり野に生い茂るものを採ったりしながら暮らしていた。
言い換えれば、「地に満ちよ」と言う生き物としての本能がそれをさせていたとも言えるよな。
極めつけはネアンデルタール人を現生人類であるホモ・サピエンスが滅ぼしたんじゃないかってことだよな。
一般的にはネアンデルタール人が進化して今のホモ・サピエンスになったって感覚を持っているヒトが多いとは思うけれど、この2つのヒトは別の生き物なんだよね。
ピカチュウがライチュウになるがごとくにネアンデルタール人がホモ・サピエンスになったわけじゃないんだ。
おそらくはネアンデルタール人とホモ・サピエンスの間でも獲物を巡っての対立みたいなことはあったんだと思う。
結果としてネアンデルタール人は淘汰され、ホモ・サピエンスが生き延びた。
な?こうしてみると、俺たちヒトと言う生き物はそもそも争うために生まれてきたようにすら見えるじゃないか。
ヒトを突き動かす「物語」
ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの決定的な違いはサピエンス全史で言うところの認知革命にあったってのが俺の今の認識なんだ。
つまり「客観的に観察することが出来ないことを現実として捉えて一致協力する」って能力ね。
その能力は非常に協力で、他の生き物には決して出来ない何百万と言う個体が一致協力して問題解決に取り組むなんてことを実現させた。
今みたいに通信手段もなにもあったもんじゃない中で、ヒトが協力し合うことが出来たのは、この物語の存在価値そのものだと思うんだ。
ところが、この物語。
冷静に考えると、俺たちヒトが持っている戦闘民族としての本質と物語のコンボってのは、実にエグい結果をもたらせているとも思う。
ヒトはヒト以外の生き物を絶滅させるだけじゃなくて、同族のヒトを根絶し続けてきた。
この物語の指し示す未来にむけての行動としてだ。
ヒトは「物語」を捨てられるのか
かと言って、ヒトがヒトである以上はこの「物語」によって一致団結すると言う生存戦略を捨て去ることは出来ないだろう。
なんかしらの世界的な天変地異が起きて、社会構造を根こそぎ破壊されたとしても、今ある「物語」は脈々と生き続けるだろうしね。
じゃあ、ヒトは他者の命を奪うために生まれてそして死んでいくのか?
残念ながら今の俺には「違うよ」と自分が納得する形で理解することは出来そうもない。
なあ、あんたはどう思う?
この奪い合いと搾取に彩られ続ける世界の中で、俺たちはどうやって「みんなで幸せになる」ことが出来るんだろうな?
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