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感情表現のコントロールをするきっかけ

あんたは感情のコントロールってうまい方かい?

俺の場合はお世辞にも感情表現のコントロールがうまいとは言えないわけだけれども、オッサンとして世の中を生きていくための最低限のコントロールってのは出来ないとならないんだよな。

それは多かれ少なかれ子どもでも同じことが言えると思うんだよ。

それでもね。
子どもたちに「感情表現のコントロールをしなさい」なんつってもデキッコナイスだよな。
そもそも「じゃあどうやって感情表現のコントロールをするの?」って質問されてもうまいこと答えられる気がしないもんな。

今回はこの実に難しい俺らが日常的にこなしているはずの感情表現のコントロールについて考えてみる回だ。

俺たちが無意識にやっていることをちっと紐解いてみようぜ。

抑制することが求められる感情表現

俺たち大人が世の中でしのいでいく際に「表に出しちゃいけない」って感情があるよな。
だいたいは「怒り」と「悲しみ」だ。
逆に「楽しみ」と「笑い」は積極的に出していくことが求められる。

実態としては、俺らは「怒り」も「悲しみ」も「楽しみ」も「笑い」もおんなじ様に感じているわけだけれども、それを表現することには制約があるってのが世の中の現実だと思う。

その制約を俺たちはガキンチョの頃から色んなヒトとやり取りすることで学び取って来たんだと思う。

でも、俺たちと俺たちの親の世代でその学び方が違ったように、俺たちと俺たちの子どもの世代でも、その感情表現コントロールについての学び方ってのは違ってきているはずだと思う。

特に今は本当に世界の状況がコロコロ変わるので、何が正解かってのは今の大人にも子どもにも判断できないって感じがあるよな。

そんな中でも要領のいいヤツってのは絶対いて、子どもだったらクラスの人気者になるし、大人だったら色んなことに挑戦してその中で成功を掴み取っていっている。

頭のいいヤツってのはいつの時代でもいるもんだよな。

感情を吐き出すリスク

そんなこと言っても、「お前、頭良くなれよ」って子どもに言っても、それは「ば~か、ば~か」って言うのと変わりない。
その言葉では相手が自分を改善するきっかけにはならないし、そもそもその改善をどうすれば良いのかってのを言っている側だって確信していないんだからね。

なら、感情表現のコントロールってのを必要だって言わないほうが良いのか?
そいつは多分違うじゃんか。

だって、感情ってのは「理解」することは必要だけれども「吐き出す」ことはメチャクチャ慎重にならなきゃならないことを俺たちは肌で感じているし、ネットを通じて発信することがその慎重さの価値を高めているってのはすげぇ感じてんじゃん。

俺たちがガキンチョの頃に、近所のガキに「ば~か、ば~か」っていうのと同じ感覚でネット上の何処かの誰かに「ば~か、ば~か」って言える世界で自分の感情を吐き出すリスク。
そいつが俺らのガキンチョの頃のリスクとは桁が違うってのは感覚でわかるもんな。

感情表現をコントロール出来るきっかけ

じゃあ、感情表現コントロールの価値が俺らの世代に比べて指数関数的に高まっているって世界観で、俺たちは子どもたちにどうやって感情表現のコントロールのやり方ってのを考えていけば良いんだろうな?
なんつっても俺たち自身が感情表現コントロールなんて完璧に出来ているわけじゃないのにだよ。

多分だ。多分でしか無いけれど、俺たちは相手の感情を想像することが求められているんだと思うんだ。

相手が何に怒るのか。
相手が何に悲しむのか。
相手が何に喜ぶのか。
相手は何が楽しいのか。

そう言うシンプルな想像の積み重ねが子どもたちを救う気がするんだよ。

でもさ。
どうやって想像させるきっかけをつかめば良いんだろうな。

すげぇ難しいけれども、入口を「誰かの悲しみ」にするのが良い気がする。
目の前誰かが悲しんでいるっていうのを目の当たりにすれば、そのヒトを助けたいってのは自然な感情だと思うんだ。

その助けたいって思いを入口にすれば、相手の感情を想像するってことが出来るようになるのかもしれない。

なあ、あんたはどう思う?

子どもたちはこの複雑な世界を生き延びるためにどうすれば相手と自分の感情に向き合うことが出来るようになるんだろうな。

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