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「強者」の言葉

あんたは自分が「強者」だって自覚があるかい?

俺なんかはどこにでもいる普通のサラリーマンなわけなんだけれども、それでも考え方によっては「強者」って立場になるんだと思うんだ。

だってよ?
俺なんかより困っているヒトは普通にそのへんにいると思うからね。

でも俺はそれと同時に「弱者」でもある。

だってよ?
俺なんかよりも成功しているヒトは普通にそのへんにいると思うからね。

このたまらないほどの矛盾ってのは何も俺だけじゃなくて誰であっても抱えている感覚なんじゃないかと思うわけよ。

誰だろうと、色んな軸で評価すれば誰かよりも幸せだし、誰かよりも苦労しているはずだ。

今回は、そんな自分の境遇ってやつの捉え方について考えてみる回だ。

自分の立場ってやつを嘆いたり慢心したりする前にちっと一緒に考えてみようや。

強者の立場からの言葉

今回この事を考える切っ掛けになったnoteがあるわけだ。

それがこのnoteだ。

まあ、読んでみてよ。
結構エモいって思ったんだよ。

正論ってのは、なぜだか知らないけれども受け入れられることは少ない。
「そうは言ってもさ」って言葉が返されることがほとんどだと思う。

なぜ受け入れられないのか?ってことを考えさせてくれるnoteだと思うんだよね。

さっきも書いた通り、俺自身は強者でありつつ弱者なんだよ。
オッサンとしては経験値を積んでいるので、その意味では強者として振る舞っていることもあるだろう。
それと同時にオッサンなので、最新の技術についていけないって言う引け目がある。

そのどちらの立場から読んでもこのnoteはチクチクと俺の感覚を刺激してくれる。

自分が強者であっても弱者であっても、「生きる」ってことについては選択の余地が無い。
それ故にいろんな工夫をしていかないと行けない。
そして、その工夫を全てのヒトがあがき苦しみながらしている。
そんなことを感じさせてくれるnoteだと思うんだ。

で、それを感じさせてもらった上で思う。

俺は強者として言葉を使っているのってどんなときなんだろう?ってさ。

「正解」を語りたくなる時

下手げにオッサンとして経験を積んでいる俺としては、その経験に照らして様々な状況を判断している。
まあ、それはオッサンかどうかってより、ヒトとして生きていくための工夫ってやつかもしれないけどね。

で、当然ながらその経験に基づいた判断ってのが100%正しいわけはない。

なんつっても、状況の変化が激しすぎて過去の経験をシンプルに活かすだけだとすでに時代遅れの判断になりがちだしね。

でも、明らかに誰かの行動が「間違っている」って思う時はある。
そんな時はつい口を出しちゃうんだよな。
それが一個人が経験したたかが知れている情報量に基づく判断だってことはわかっていてもさ。

そう言うときこそ、俺たちは誰かを正論で追い詰めているってことなんだろう。

「出来ない」は証明できない

そう言う正論で追い詰めるって思われる時って、大抵が「こうすれば出来るじゃん」ってことを言っているんじゃないかって思ったりもする。

俺たちが口を出すのって、大抵が「なんか出来ない」に対する解決方法を伝えたいって思うときだもんな。

でも、これって結構な落とし穴なのかもしれない。
なぜって?
「出来ない」ってことを証明することは出来ないからだ。

そらそうだろう?
出来る方法ってのが無いことを証明できて初めて「出来ない」といえる。
でも出来る方法が見つかっていないってだけでは「出来ない」証明にならないからだ。

そう言う証明することが困難な証明のことを悪魔の証明と言う。

そうなってくると、現実的に「出来ない」と悩んでいるヒトに「こうすれば出来るぜ」って言うことは、本質的に反論が出来ないことってわけだ。

つまり「出来ない」と表現することは誰かにマウントを取られるってことを必然的に許す行為ってことになる。
多くのヒトはその状態を受け入れる事ができない。

結果としてコミュニケーション不全が起きるって言う、誰も幸せにならないやつだ。

ならどうすれば良いのか?

多分だけれども、「こう言うこともあるらしいぜ?」って情報提供の体裁をとるってことなんだろうな。

指示通りやってうまく行った、ではなくて、参考事例を考慮してうまく行った。
成功体験はあくまで行動する本人のためのもんだもんな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは自分の経験が仲間の成功につながるってことを喜びとして心のなかに再現できると思うかい?

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