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見なくてすむ権利

あんたは「見たくないものを見なくてすむ権利」ってフレーズを眺めたことがあるかい?

なんか新聞に女子高生のボインちゃんの広告が載っかったら、「フギャラプ~!」って騒いでいるヒトが出てきたってことらしい。
読んだときないんだけれど、普通に雑誌連載されているコンテンツみたいだ。

うん。
雑誌に載ってるのは良くて、新聞はダメってことなのかな?
少年誌だから女性は読まないだろって?
いやいやいや、今時の流行りの漫画って少年誌も少女誌も関係ないべ?
鬼滅の刃とか。

今回はこの「見たくないものを見なくてすむ権利」って言葉を考えてみる回だ。

ちっと、このえげつない言葉について考えてみようぜ。

見たくないと言う感情

まずはこの見たくないっていう言葉からだよな。

確かに、俺にだって見たくないものはある。

有能なヒトが理不尽な暴力でその有能さを失う光景は見たくない。
例えば、必死の思いで能力を高めてきたスポーツ選手が通り魔に教われて半身不随になる現実なんて見たくはない。
必死になって芸能界での人気を手に入れた美しい女優が硫酸をかけられてその努力を無惨に壊されるのなんて見たくない。

そうなんだよな。

見たくないって感情は、きっと誰だって持っている。
それがどんなことなのかってのは、ヒトによって千差万別だろうけれどね。

見ない権利

じゃあ、そう言う見たくないものを見ない権利ってのはあるのか?

それはなんかある気がする。

そりゃ、見たくないって感情があるわけだから、そこから目をそらすな!って言うのは難しいと思うもんな。

でもそれって、教育って言葉で考え始めたらどうなるんだろう?

勉強って、基本的に「見たくないもの」じゃんか。
じゃあ、子どもたちには教科書を「見ない権利」ってのがあるんか?

ぶっちゃけね?
それはある気がするんだよ。

もちろん、最低限知っといた方がよい知識ってのはある。
おそらくは四則演算とか義務教育でならう読み書きの範囲は知っとかないと世の中で相当苦労する。
ただ、苦労することを前提として理解出来ているなら、「見ない権利」ってのを使っても自己責任って話じゃんか。

ぶっちゃけ、「その教育が必要だ」って根拠を俺たち大人は証明することも出来ないしね。

もちろん、そんな巨大な責任を子どもが負えるわけないんだから、大人は口を酸っぱくして「勉強しなさい!」って言い続けてきたんだけれどさ。

見なくてすむ権利

問題はこの「見なくてすむ権利」ってやつだ。

こいつは、要するに表現をするなって言う権利ってことだよな。

これって、実にまずい言葉だと思う。
表現の自由って言う、俺たちの世界の大前提を否定しに行っている言葉だと思うんだよな。

もちろん性的描写だとかに対する規制ってのはある。
R指定みたいな、子どもたちには見せるべきじゃないって表現もある。
これは性的なものに限らずね。
そういった表現のルールみたいなものについては一定の価値はあると思う。

法的な根拠のある規制もあるし、ない規制もあると思う。
でもその上で、本質的にはこの表現の規制ってのは「制限がない方が表現の発展がしやすい」ってのがあると思うんだよね。

表現の規制ってのは言い換えれば「考えることに対する制約」ってなるじゃんか。

この変化しまくっている世界において、考えに制約を持たせてしまったら、対応できる道を狭めることになっちまう気がするじゃん。

この「見なくてすむ権利」なるものを認めちまったら、俺たちの脳みそが鎖につながれたも同然だと思わんか?

もちろん、「見ない権利」ってのはあると思う。
不快だって感情は俺たちヒトには抑制することは出来ないんだから、その感情を引き起こすようなものは見ないでよい。

今回のケースならその全面広告を出した新聞の購読をやめるってのもひとつの手だろう。
そこまでいかなくても、その全面広告を破り捨てるってのも自由だと思う。

ただ、その新聞に「そのコンテンツの広告を出すな」ってのは明らかに違うと思うんだよ。

それをいった瞬間に、SNSでのやり取りを含めて、いっさいがっさいなんも表現が出来なくなっちまうもんよ。

そんな言葉狩りの世界ですごしたいって思わないべ?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはこの「見なくてすむ権利」って言葉とどう向き合っていけば良いんだ?

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