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希望の在り処

あんたは自分が昨日の自分と違うことを出来ていると思うかい?

ちっと気になる記事を読んだんだよ。

おおう。
おんなじことばっかやってるってのは前頭葉がいただけない状態になっとるってことなんか。

やべぇな。
多分、俺は結構行動パターンが固定化されているってのが実態な気がする。

在宅勤務になってからこっち、全然近所以外のところで食材をゲットしなくなっているし、たまに外食するにしてもものすごい近所に限定したところでしかしてない。

まあ、もとから食に興味が薄いってのはあるとは思うんだけれどさ。

今回は自分の興味ってやつについて考えてみる回だ。

ちっと自分の意欲ってやつについて考えておこうぜ。

欲望が自分にもたらすもの

現実的にだよ。

30を超えた頃から、俺自身は欲望ってのがちっと衰えてきたって感覚がある。

出世したいとか、美味いもの食いたいとか、オモロイゲームしたいとか。
キレイな女性の隣りにいたいとか。
実に多くの欲望というカテゴリのことが消え失せていった気がする。

その代わりに40を超えてきたあたりから俺の意識に上ってきたのは体の不調だ。

目は霞むし、手は震えるし、足元だっておぼつかない。変な汗だって止まらない。
その内、俺は死ぬんだよなってのを実感しながら日々を過ごしている。

ただね。
欲望が消えてきていることが俺の前頭葉を蝕まれた結果だとするとだよ。

俺が残りの命を使うにあたって、俺が最も求めている「考える」って能力を奪われるってことなんか?

いや、まじで。
それだけは勘弁してくれ。
俺から考えるってことだけは奪わないでくれ。

オモロイを思い返す

と言いながら、俺は日々俺がオモロイと思っていることを書いているわけだ。

その行動そのものが欲望なんじゃないか?って言われたらそう言うことだと思える気がする。

むむ?
だとすれば、この投稿がしたくなくなった時。
俺はマジで命が尽きかけているってこと?

いやいやいや。
それはない。

だってオモロイを感じることと、オモロイを表現することって別じゃんか。

実に多くの才能が俺たちにオモロイを提供し続けてくれている。
言い換えれば、俺たちは命の続く限りオモロイを味わうことが出来る世界に生きているってわけだ。

例えば、俺がオモロイを表現する方法がとれなくなったとする。
四肢がうまく動かせなくなったり、意識不明が続くようなことなんてありえる話だもんな。

それでも、俺は何かをオモロイと思うことは出来るんだと思う。

あんたが作るオモロイを味わうことが出来ると思う。

そうなんだよな。

俺はあんたの作り出すオモロイを味わいたいだけであって、俺の感情を伝えることがメインじゃないんだよ。

だから俺がいなくなったとしても、俺がオモロイと思ったものは生き続ける。

それってさ。
希望じゃないか?

自分の中の希望を考える

そして、俺の中にある希望ってやつが何なのかって考えてみる。

まず思い起こされたのは息子のことだ。
息子の抱える「将来」なる不確定なものに対して、息子は相対していかないといけない。

そして、多分俺はその困難に対して息子を助けることは出来ない。

でも、思うわけよ。

希望はある。

息子は息子の力で幸せを勝ち取る事ができる可能性がある。

それを勝ち取った息子に「幸せか?」と問いかける事は俺には出来ないかもしれないけれど。

いいじゃないか。
そいつが命をつなぐってことだろ?

そして、同時に思う。

これを読んでくれたあんたが希望ってことだ。

俺の書いたことを読んで。
何かを感じて。
何かを表現する。

この繰り返しで、多くのヒトが何かを感じていく。
この増幅の繰り返しでヒトは幸せを生み出していく。

これが希望でなくて何なんだ?

そして、これはあんたの発信もおんなじだ。

あんたの書いたことを読んで。
何かを感じて。
何かを表現する。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちの発信はどこかの誰かの希望を増幅するキッカケになれていると思うかい?

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