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災害に対する俺たちの思い

あんたもトルコ・シリアの地震のニュースを見ているかい?

実に凄惨な状況が伝えられている。犠牲者数を見ると普段のいろんな事件で被害を受けているヒトの数と明らかに桁が違う。

それと同時に、この災害が冬に起きたことによって俺たち日本人にとって思い出さざるを得ない災害があるじゃんか。

3.11

もう、なんつーのが正しいのかわからないくらいに悲惨な災害だったと思う。
地震によって、倒壊した建物。
その瓦礫に押し潰されたヒトたち。
身動きも出来ないまま、寒さによって命を削り取られていくヒトたち。

直接的な被害者だけでもこんな悲惨さを俺たちは本の12年前に目の当たりにしているわけだ。

今回はトルコ・シリアの地震で被害にみまわれてしまっているヒトたちに対する俺たちの感情について考えてみる回だ。

ちっと、俺たちの「善意」ってやつを考えてみようぜ。

トルコ・シリアでの被害状況

BBCのニュースによれば、すでに死者数は1万人を越えているって状況らしい。

最新の状況では2.2万人以上の犠牲者が出ているってことらしい。

これは政治的状況からシリアの情報が入手しにくいってことを考えたら、もっとでかい数字になっていくことが想像される。

3.11の時の死者数が15,900人だから、それに遥かに上回る被害者数だ。
きっと、これからも増えてしまうとすると、東日本大震災の悲劇を遥かに上回ることが現地で起きているってことだろう。

不幸中の幸いとしてはトルコの原子力発電所は被害を受けていないそうだ。

すでに、各国が支援に入っているってことらしいけれど、現地の気温は最高気温で摂氏3度で最低気温は普通に氷点下らしい。

単純に建物の中にいないと気温でヒトの命が奪われてしまいかねない状況なんだよな。
特に子どもとか。

寄付という行為

で、当然のように毛布だとかテントだとかを支援したいところだとは思うけれど、ものを送りつけるには日本は地理的に遠すぎるからお金の支援ってことを考えざるを得ない。

いろんないかがわしい募金サイトがいっぱいあるから、こういうユニセフみたいな権威プロパガンダに乗っかったような募金を経由せざるを得ない感覚はある。
でも、これって絶対今この瞬間に寒さに震えているヒトを救うことに直結してないんだよな。

確かに寄付しないよかましだとは思うんだよ。
なんつってもこれから先のトルコとシリアのヒトたちは復興という難易度がほとんど無理ゲーと言っていいくらいのことに取り組まないといけないんだから。

ただ、俺が思うのは、この寄付をすることで「俺が救われる」って恩恵をホントに得て良いのかって感覚なんだよ。

寄付のお金の使われ方

ぶっちゃけ、俺の場合は寄付をした先でどういう風にそのお金が流れていっているのかなんて眺めちゃいない。

実際、あんたもほにゃらら募金に募金した自分の小銭がどうなっていくのかなんて考えもしないだろ?

で、ここ最近だとネットを沸かせているcolaboと赤い羽根募金のお金の流れとかの話もあるじゃんか。
実態として問題があるのかどうかはこれから先にわかってくることだと思うけれど、募金したお金がどう使われるのかってのは特定のヒトの思いがどうしても絡むことだって現実を俺たちに突きつけてくれた話だとは思うんだよな。

なに?そんなことはわかってるって?

そうなんだよ。
俺たちはたぶん募金のお金の流れがグレーだってのをわかった上で募金してるんだよ。

その理由は税金対策みたいなこともあるだろうし、シンプルに「誰かを救えた気になれる」っていう癒し効果のこともあるだろう。

ものすごい極論で書くならエゴだよな。

それでも、俺はそのエゴってのを否定する気にはなれないんだ。
なぜって?
だって、偽善だろうがなんだろうが「誰かを救う」って行動は俺が美しいと感じているからだ。
そう。
俺のエゴだ。

俺たちは俺たちの好き勝手で世界を救う。

俺の大好きな言葉のひとつだ。

俺たちはもっと自由にどこかの誰かの未来を救いに行っていいはずじゃんか。

なあ、あんたはどう思う?

トルコ・シリアという地球の裏側の誰かのためになにかをすることで、俺たちは罪悪感を乗り越えて自分をスキになれると思うかい?

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