期待の行方
あんたはヒトの期待ってのを考えることがあるかい?
例えばさ。
ディズニーランドってあるじゃん。
基本的にディズニーがスキなヒトが訪れるあの夢の国だ。
あそこには新旧含めてのディズニー作品が現実世界に舞い降りたような空間があるじゃん。
その夢のような空間を期待してそれこそ数え切れないほどのヒトがその地を目指すわけだ。
で、その夢の国にだよ。
例えば葬送のフリーレンがテーマのアトラクションとか作られたら「それは違うじゃん」ってなると思うんだ。
そんな風に期待されているものと期待に答えることってのはリンクしていないとって思われていると思うんだ。
そしてそれはきっと俺たち個人にも当てはまることだと思う。
今回は期待ってことについて考えて見る回だ。
ちっと俺たちがやり取りしている気持ちってのを考えてみようぜ。
期待されていることが変わり続ける
冒頭に書いたディズニーランドとよく比較される場所としてユニバーサルスタジオジャパン(USJ)があると思う。
本家アメリカのユニバーサルスタジオってさ。
要するにアメリカ映画の「スタジオ」をエンタメにしたような空間だったと思う。
つまり映画村的な娯楽施設だったと思うんだ。
ところがUSJってなると、当然ながらそこで何かを撮影すると言うことじゃなくて、始めから遊園地的な施設として設けられていると思う。
始めからユニバーサルスタジオの「様な」場所として設計されているんだよな。
だからエヴァンゲリオンも進撃の巨人も表現された。
最近だと鬼滅の刃もなんか出来たんだっけか?
本家のユニバーサルスタジオが「スタジオの体験」としての期待から始まったのに対して、USJは「コンテンツの体験」と言う様に期待が変わったってことだと思ったんだ。
つまりユニバーサルスタジオとUSJでは出来た経緯が全然違う。
それ故に両方への期待も違うってわけだ。
俺たちへの期待
じゃあ、俺たちへの期待ってのはどうなのか。
これもまた変わり続けている。
そりゃそうだ。
なんつっても俺たちは経験ってのを積み上げていくように出来ている。
極端な話、昨日出来たことと今日出来ることは違うんだから。
それが「成長」と表現されたり「退化」と表現されたりはあると思うけれどね。
俺たち自身がそういう変化をし続けているわけだから、当然周りからの期待も変わり続ける。
この俺たちへの期待ってのの変化を俺たちはきちんと受け止められているのか?
そいつはチト難易度が高い。
何しろ俺たちは俺たち自身の変化ですら正確に理解出来ていないんだから。
俺たちの期待
じゃあ、逆にだ。
俺たちは誰かや何処かにどんな期待をしてるんだって話だ。
冒頭に書いたディズニーランドやUSJ。
そこにどんな期待を俺たちはしているのか。
それを言語化しようとしたことがあるかい?
きっと「楽しいこと」くらいのふわっとした感覚だけで、言語化なんてするヒトはレアだと思う。
あんたもそうじゃないかい?
俺はそうだった。
で、とりあえず今回言語化してみて思ったんだけれど、俺の期待ってのは全く「コミット」されてないんだよな。
コミット。つまり確定されていないってことだ。
どんどん俺の期待ってのは移ろい続けている。
こうなってほしいなぁ。
誰かや何処かにそんな期待をしていたとしても、そのことを記録しているわけじゃないから、その時点でどんな期待をしていたかなんてことを正確に記憶出来ているわけじゃない。
でも振り返ってみると、俺の期待ってのは移り変わっていると思うんだ。
つまり、俺たちへの期待も俺たちの期待もどっちも移ろい続けているってわけだな。
自分への期待
でね。
そんな移ろい続ける期待ってやつをだ。
自分ごととして考えてみる。
俺たちは俺たちに何を期待しているんだ。今。ってさ。
俺はワカゾーの頃にさ。
自分に問いかけた事があったわけよ。
「どんなヒトになりたいんだ?」ってね。
その時の答えはこうだった。
「立派な大人になりたい」
きっと基本は変わってない。
でも今の俺には「立派」とは何かってのを当時の俺に答えられない気がする。
カリスマ性か?
正義感か?
ああ、そうか。
俺はパトレイバーの後藤隊長の様になりたかったんだ。
ここだけは移ろってはいない気がする。
後藤隊長の様に迷いながら出した結論を誰かに伝えることが出来るヒトになりたいんだ。
なあ、あんたはどうだい?
あんたの周りにある期待をどう理解していこうか?
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