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あの頃の俺は今の俺を立派な大人と言うだろうか

あんたは子供の頃にどんな大人になりたいと思っていたか、覚えているかい?

俺が子供の頃はわりかし周りにいる大人たちはかなわないと思うような大人が多かったような気がする。

学生の頃のヒトを推し量る尺度なんてものは、学歴とか成績くらいしかなかった。

その上で、俺の周りにいる大人たちは、俺の親もおじさんおばさんに至るまで、結構な大学に行っていたりする。
俺の通わせてもらっていた大学と比べると偏差値で行くとガッチリ差があるような大学ばかりだ。

そんな状況の中で、少年だった俺はどんな大人を目指していたのか。

今回は、過去の俺を振り返って、今の俺を眺めてみようって回だ。

ちっとばっかし、俺の価値観ってやつに付き合ってくれよな。

学生時代の俺の価値観

俺の学生生活を振り返ってみると、ガッチリオタクな人生を歩んでいたんだと思う。

高校のときに逆襲のシャアが公開されて、そいつを見まくっていた記憶があるし、小学生の時は宇宙戦艦ヤマトに夢中だった。

なので、必然的に俺の目標となる大人像はそれらの物語の中に見いだされていったんだよね。

小学生のころは宇宙戦艦ヤマトの古代進の様になりたいと思っていたような気がするし、大学生のころは機動警察パトレイバーの後藤隊長の様になりたいと思っていた気がする。

特に大学生の頃は、現実世界の周りにいる大人たちに魅力を感じることが出来ずに、尊敬する人物は?というありきたりな問に答えを持たないようなガキンチョだった。

ただ、一つだけ自分がなりたい大人ってやつをイメージさせる言葉を俺は持っていた。
「立派な大人になりたい」
それが俺が持っていた唯一の目標のようなものだったと思うんだよね。

今の俺は「立派な大人」なのか

で、見まごうことなきオッサンになった今の俺は、学生時代の俺から見たらどう見えるんだろうって想像をしてみる。

古代進のようなリーダーシップを発揮しているわけでもなく、後藤隊長のようにキレキレに切れまくった洞察眼を持っているわけでもない。

どこにでもいる当たり前のオッサンなわけだ。
さぞかし学生時代の俺に言わせればガッカリした大人なのかもしれないな。

とりあえず、想像の中の学生時代の俺と今の俺が会話を試みてみる。
学生時代の俺は今の俺を見て、こういうだろう。

「やっぱりそんなもんだよな」

それに対して俺はこう言うだろう。

「そんなもんかもな。俺は今の状態以外の未来は想像できなかったよ」

学生時代の俺はその言葉に対してどう思うだろうか?

立派な大人って何か

実際、俺が学生時代に思い描いていた「立派な大人」ってのは何者なのか?

収入が多い大人か?
尊敬してくれるヒトが多い大人か?

そう言った何かしらかの数値で表現出来るものなのだろうか?

答えはYESでありNOなのだろう。
確かに収入が多かったり、尊敬してくれるヒトの人数ってのは立派な大人の一要因なんだとは思う。

ただ、パトレイバーの後藤隊長は収入はたかが知れていそうだし、尊敬してくれるヒトの人数も限定的な気がするんだよな。

それでも、学生時代の俺は(今もだが)後藤隊長のキャラクターを「立派な大人」と認識していた。

無理やり言葉にすると、真剣に世の中と相対しているヒト。
それが学生時代の俺が思い描いていた「立派な大人」何だと思うんだよね。

その意味において、俺は立派な大人になれているのだろうか?

残念ながら立派とはいい難い。
でも、全然ダメな大人でもないとは思いたいよな。

自分自身を客観視しきれているとは思えないけれど、それでもあえて自分のことを評価するなら「それなりの大人」ってところかもな。

それなりに世の中に相対しているし、それなりに未来のことを考えている。

学生時代の俺に向けて言いたいのは、あくまで「それなり」だけれども、俺たち「それなり」の大人が世界を一人分だけだけれど背負って生きているって実態かもしれない。

俺がいなくなったら、俺一人分だけ世界は傾くんだぞってね。

そんな言葉で学生時代の俺は納得はしないと思う。
でも、今の俺はその言葉で納得することが出来る。

俺たちは、今を生きている。
それだけで「それなり」の大人ってことだもんな。

なあ、あんたはどうだい?

学生時代の自分に誇れる自分ってやつに近づいていけているかい?

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