免罪符である「日常」
あんたも愛欲というものと向き合う瞬間ってあるかい?
こないだ無茶振りと言って良いような企画「ミヨコそこに座んなさい」企画に果敢にも挑んでくれた勇者がいたんだよね。
なんつーかさすがにきゃらをさんだなぁという作り。
パロディの雰囲気を散りばめながらも「ミヨコそこに座んなさい」に答えようと、もがいている姿が目に浮かぶようだ。
で、このきゃらをさんの「スナイパーなのさ」を読ませてもらってだ。
俺の中に何かが残っているはずなわけだ。
今回は「スナイパーなのさ」を読ませてもらった後に俺の中に残ったものを言葉にしようって回だ。
まあ、俺の無茶振りに答えてくれたきゃらをさんの侠気ってやつを眺めていこうぜ。
男と女と日常と
まず、この作品には絶妙な罠がかけられていることに気づいただろうか?
全体的にきゃらを臭がプンプンするくらいに香ってきているので、そこに感覚を根こそぎ持ってかれる作りになっているけれども、よくよく読んでみると、実に多くの「なぜ?」が散りばめられていると思うんだよな。
なぜ主人公の「きゃらを」はN.O.T.E.を止めようとしたのか?
なぜ「おひた坊主」は「きゃらを」を助けたのか?
なぜ「あなた」はN.O.T.E.を起動させることで何かが得られると思ったのか?
そんな数々の「なぜ」がこの作品の中に仕込まれているってわけだ。
そして、その疑問に対する答えも作品で表現されている。
すなわち「日常」だ。
「きゃらを」はN.O.T.E.によって奪われる「女の日常」を守るために立ち上がった。
「おひた坊主」は「日常を守るきゃらをの日常」を守りたかった。
そして「あなた」は「おんなと一緒にいる日常」を取り戻したかった。
誰もが男と女と言うしがらみの中で、そのしがらみの最右翼である「日常」を守ろうとあがいている。
何たる矛盾だろうか。
俺たちの日常
では、俺たちを囲んでいる「日常」ってのはどんなものか?
仕事でもプライベートでも心地よい感覚も受ければ、実に居心地の悪い感覚も生み出す「日常」。
「日常」そのものにはことの善悪みたいなものは関係していなくて、ただそこに川が流れているがごとくにそこにあるものなわけだ。
これで不思議なのが、どんな感覚を呼び起こすような出来事が起きたとしても、それが続けば俺たちヒトってのはそれを「日常」にしちまうってのが現実としてあるってことなんだよな。
例えばだ。
あんたもウクライナ戦争が始まった当初はまるで世界が崩れていくような感覚に襲われたろ?
でも、もう俺たちはウクライナ戦争のニュースを見ても「日常の中の風景」としか捉えられなくなってたりしないか?
そんな風に日常ってのはまるで質量を伴わない液体のように俺たちにまとわりついてくるって側面もある。
その日常が俺たちの感覚を鈍らせていくと言う現実を知りながら、俺たちは日常にしがみついて生きている。
なんとも言えない矛盾だよな。
日常に酔っ払う
こう考えていくとだ。
実は俺たちは感覚を研ぎ澄ましたままでは生きていけないってことに行き着いちまうんだよな。
進撃の巨人のケニー・アッカーマンは言った。
誰もがなにかに酔っ払っていないとやってられなかったんだ、と。
「スナイパーなのさ」の「きゃらを」はそんな風に酔っ払い続けている俺たちを優しい悪意で守り続けているってことなのかもな。
そして、この優しい悪意ってのは、俺たちが誰しもが抱えている意識だと思ったりもする。
誰しもが、冬の日差しを受ける公園を横切って毎日の生活を始めていたあの頃を手放したくはない。
その思いを守ってやりたいと言う優しさは、日常を手放すことで初めて手に入れられる境地からヒトを遠ざける。
強くなければ生きていけない。
優しくなければ生きていく資格がない。
そして、優しさは誰かを弱くする。
何たるジレンマだろう。
なあ、あんたはどう思う?
「きゃらを」の選択は俺たちがこれからする選択とどう重なり、どう反発していくんだろうか?
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