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政治と団体

あんたも誰かの助けをもらって自分の存在を維持しているって思うことがあるかい?

一連の旧統一協会と政治の関係ってニュースがあるじゃんか。
実際、旧統一協会のやっていた霊感商法によって被害を受けたヒトは大量にいるんだろうなと思うんだ。

さらに言うなら、今現時点において旧統一協会が世の中に被害をもたらしていないって言えるほどの根拠を俺は持っていない。

疑わしきは罰せずとは言うけれども、ヒトの感情がそこに向かないってのも理解はできる。

そこで考えるわけよ。

政治っていう極めて利他的な要素を求められる職業においてだ。
宗教って言うこれまた利他的なことを前提にされる存在がフォローしたとして、その状態を俺たちは認められないってことなのか?ってさ。

今回は、団体と政治ってことについて考えてみる回だ。

ちっと、ヒトが徒党を組むって意味について考えてみようぜ。

今存在する団体

まずは存在する団体ってどんなのがあるのかってことからだよな。

農協、漁協、経団連、会社、市民団体、地方自治体、国。

俺たちヒトは実に多くの団体によって運営されている。

その団体はほぼ例外なく、その団体の構成員の総意によって運営されていると思う。
なに?
あんたの会社はワンマン社長だから違うって?

いや、そう感じるのは無理もないことだと思うけれど、すべての意思決定を一人のヒトがやりこなすってのは現実的に難しいじゃんか。
だからこそ、意思決定を部分的にかもしれないけれどメンバーに任せていかないと回らなくなっちまう。

そして、活動に対する意思決定を他人に任せた瞬間に「総意」ってものが生じるってからくりだ。

政治と会社の違いは、その総意を構成するための活動が選挙なのか同調圧力を含めたコミュニケーションなのかって違いがあるだけだね。

宗教団体が政治に関与する意味

じゃあ、宗教団体が政治に直接関与するってことに問題は無いのか?

その辺りになってくると、実に怪しくなってくる。
なにしろ政教分離という大原則はどうなったって話になってくるからね。

政教分離の必要性ってのは、そもそも法の支配ってのを実現するに当たって、その法ってのが誰によって決められるべきなのか?って話に通じている。

宗教には大抵聖典と呼ばれる法がある。

ぶっちゃけ、日本国憲法と聖典を天秤にかけて、どっちが正しいの?ってなったときに、聖典を選ばれちまうと日本における法の支配が壊れちまうんだよな。

こうなると、俺たちが享受している安定した社会ってのが傷つけられちまうことになる。
そいつはいただけないよね、ってんで政教分離って大原則が出来ているわけだ。

意思をもって宗教を担いでいる個人の政治

ところがところがだ。

宗教ってのはヒトの意思を具現化するための仕組みでもある。

宗教によって「正義」を感じているヒトは、自分一人だけの「正義」を掲げるヒトに比べて、その「正義」の正当性を説明しやすいってのがあると思うんだよ。

そりゃそうだ。何人もの知恵を結集して「正義」をこさえてきてるんだから。

その正義をね?
「振りかざさねばならぬ」と感じているヒトが宗教の正義に共感しているわけだ。

そう言うヒトがだよ。

その自らが信じきっている正義をかざしながら日本の政治に関わることを俺たちは阻む理屈ってのがあるんだろうか?

たぶん、これさ。
無理じゃね?

そもそもその「正義」が宗教によってもたらされたものなのか、生育環境によってもたらされたものなのかを見極める方法がないし、その「正義」の獲得方法によってヒトをより分けるってのも、実に違和感がある。

例えば、旧統一協会がなんらかの形で解散させられたとする。

でもその教えという情報は消去することは事実上不可能だ。
その教えに従って、「正義」を貫くヒトは今後もいるんだと思う。

なら旧統一協会という組織を解体しても、そこに属していたヒトを消し去ることが出来るわけじゃない。
そして、その教えを抱えたまま政治に関与することも防げるわけじゃない。

そう考えるとさ。

政治家が旧統一協会との関係があるのか無いのかなんてことを必死こいて追っかけるなんてなんの意味があるんだ?

なあ、あんたはどう思う?

それでも俺たちは政治家たちに「気にくわない団体との関わり」を絶てと言い続ける意味があると思うかい?

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