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ヒトと甘え

あんたは甘えたり甘えられたりなんてことがあるかい?

奈星さんのこんな記事を読ませてもらったんだ。

曰く、許される甘えと許されない甘えがあるんだと書いてくれていた。

甘えると言うのが「愛」とつながっている言葉だとすると、ちとこの話は複雑さを絡める話になるなぁと思って読ませてもらったんだ。

もちろん人心掌握術と言う技術的な側面も「甘える」にはあると思うけれどね。

今回は奈星さんの記事に乗っかって「甘える」について考えてみる回だ。

ちっと、この行為の意味みたいなものを言葉にしてみようぜ。


甘えると言う感情

最近さ。
あんたは誰かに甘えたりしているかい?

そう聞かれると「いや、甘えてねーし」と胸を張って鼻息を荒くするようなこともあるだろうし、「いろいろ甘えちゃってるよなぁ」としんみりすることもあるだろう。

そう。
同じヒトでも時によって「甘える」と言う言葉に対する態度が変わるもんだよな。

そう考えるとだ。
甘えると言うことそのものに対して、俺たちはあんまりコントロールを出来ていないってことになる。

奈星さんは「許される」甘えと「許されない」甘えがあると書いてくれた。

それはなんとなく本質的に間違っていないと思うんだ。

でも「甘えたい」というのが技術的なものじゃなく、ただそう感じた場合はさ「そう感じた」ってしか説明が出来ないやつなわけだ。

つまり、感情ってわけだな。

そこにはロジックもへったくれもない。
甘えたいから甘えたいんだ。

甘えると言う行為

で、じゃあ甘えたいという感情が俺たちの中に生まれたとしてだ。

常に、その感情を行動に移すべきか?
そいつは違うよな。

奈星さんの言う通り許されない甘えってのはあるんだから。

コレは感情全般に言えることだと思う。
つまり感情を行動に移すのかどうかってのは、意思を持ってコントロールするほうが良いってことだ。

奈星さんは計算のない甘えが好ましいと書いてくれている。
このことそのものは全く違和感がない。

うん?でもそれだと、感情を意思を持ってコントロールしろって話と違うだろって?

俺が感じたのは「計算がない」ことを「感じさせる」ことが重要なんだってことなんだ。

実際に「計算していない」ケースもあるだろう。
100%自分の感情をコントロール出来ているヒトが居たとしたら、それはもはや神とか精霊のたぐいだ。

俺が言いたいのは、相手にいかにして心地よく甘えさせてもらうかって話なんじゃないかってことね。
気づかいって言葉でも良いかもしれない。

甘えると言う意味

で、そう考えるとだ。

甘えると言う行為は相手のことをおもんばかってするのが本来って話になってくる。

甘えると言う行為で自分が利益を得るためと言う目的じゃない。
甘えると言う行為で相手がいかに自己肯定感を手に入れることが出来るかを戦略的に考えていく必要があるってことだ。

俺たちは、誰だって自己肯定感ってのを掴みたがっていると思う。
そんだけ、俺たちは世界と自分の間に溝を感じながら生きていると思う。
なんで俺はこれが出来ないんだ。
そう感じながら日々を過ごしている気がする。

そんな時に誰かから「甘えられる」。

言い換えるなら他者から肯定されるってことだ。

普段から自分自身が自分を肯定できない何かを感じていて、そこを他者から肯定されるってわけだ。

ただ、こいつが難しいところなんだけれど、ヒトの感覚ってのはいつだって「差分」で成立するってのがあると思うんだ。

つまり、「前と比べてどうか」で感じるってことね。
暑い日がつづけば、暑いってのに慣れちまうだろ?あれだ。

つまり「甘えられる」ことに慣れちまうと、そこにプラスの感情はなくなる。
ただ「搾取されている」と言う感覚が残るだけだ。

それじゃあ、甘える方も甘えられる方も誰も幸せにならない。

甘える方は「搾取している」と言う罪悪感に苛まれるし、甘えられる方も「搾取されている」と言う絶望感に襲われる。

じゃあ、どうするのか?

たぶんだけれど、俺たちは相手のことをよく見る必要がある。
相手の自己肯定感を失いかけているのかどうかを見る必要がある。
まあ、それこそ神や精霊でもなけりゃ完全に相手の感情を読み取るなんて出来やしないんだけれどさ。

それでもさ。

俺たちは相手を肯定するために「甘える」。
そう思ったんだよ。

なあ、あんたはどう思う?

甘えることの意味はどこにあると思う?

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