子どもの環境を奪う大人の状況
あんたは子どもたちが遊ぶ場所ってやつについて考えることってあるかい?
俺たちがガキンチョの頃なんて、友だちの家に大人がいようがいまいが関係なくたむろってたし、学校の校庭も普通に開放されていたから走り回る場所はいくらでもあった。
なんならそのへんの道路でメンコやらベーゴマやらで遊ぶことも普通にあったし、そのへんの林で木登りも普通にやってったと思う。
インドア派だと自負している俺ですらそのくらいなんだから、いわゆる普通のガキンチョなんてもっと色んなところを駆けずり回ってたと思う。
ところが、こんなニュースが俺の低めのアンテナにこんなのが引っかかって来たんだよ。
今回は今の子どもが遊ぶ場所ってやつについて考えてみる回だ。
ちっと子どもと地域ってやつの関係について考えてみようぜ。
子どもが「うるさい」ってこと
まず常識的に考えられる子どものうるささってのがあると思う。
まあ、ガキンチョなんてのは騒いでなんぼなもんだってのは、ワリカシ普通に認識されていることだと思うわけだ。
それでも、「子どもがうるさいから公園閉じて」なんて要望が出ているってのは、たぶん俺の認識を超えた何かが起きているってことなんだろうな。
これは最近の子どもがうるさくなったって傾向があるって意味なのか?
それとも最近の大人がうるさい子どもに耐えられなくなってきているって話なのか?
子どもがうるさくなりつつあるという仮定で考えてみる
仮に、今の子どもが俺たちがガキンチョの頃に比べてうるさくなっているってのが実態だと想定してみる。
うるさいってのは、地味に多くの意味を持つよな。
シンプルに放っている声の大きさがでかいって状態がまず想定される。
そのケースを成立させるためには、俺たちがガキンチョの頃より、今の子どものほうがでっかい声を出しているってことになる。
………考えにくくね?
子どもの声の周波数だとか、音量みたいな物理的な違いが俺たちがガキンチョの頃から生じているなんてさ。
少なくとも、俺がガキンチョの頃に駆けずり回っていた公園の周囲の家から「子どもがうるさい」なんて苦情が出たなんて話は聞いたことがない。
なんなら、俺の友だちが俺の家の屋根に植木越しに登っているのを大人たちは微笑ましく眺めているような時代だった。
子どもをうとんでいる大人が増えている仮定で考えてみる
じゃあ、子どもは変わっていないとすれば、その子どもを認識している大人が変わっているってことになるわけだ。
つまりは、自分の認識している世界観に子どもという外乱を許容しにくい状況が生まれているってことだ。
なんでそんな状況が生まれているんだろう?
思うに、地域という共同体で子どもを扱うってことに対する抵抗感がましているってことなのかもしれない。
ドラえもんとかに出てくるようなカミナリ親父みたいなヒトって俺たちがガキンチョの頃ですら見ることが無くなっていたと思う。
今の自分の環境を振り返ってみると、ぶっちゃけご近所の子どもたちの名前も顔も認識できていない。
地域という共同体が成立していない状況になっているってのが実態だと思うんだ。
言い換えれば、他の家の子どもたちについて興味を維持できるほどの余裕が俺にはないってことかもしれない。
もちろん、直接やり取りしているヒトの子どもとかにはめちゃくちゃ関心を抱くことはある。
「おお、あのヒトの子どもはこんなに育ったのか」って感じ。
親戚のオッチャンの気分だな。
でも、それはその「やり取りしている大人」を経由した関心であって、子どもそのヒトに対する関心じゃないんだよな。
そして、理由はわからないけれども、ご近所という物理的な関係を持ちやすいはずの「やり取りしている大人」との関係が薄らいでいっている気がする。
もちろん、俺が人見知りオッサンだってのも理由にあるとは思うけれど、なんとなくだけれど、いたるところで「ご近所付き合い」ってのが希薄になっている気がするのは俺だけかね?
その希薄になったご近所付き合いの結果、子どもたちは「うるさい」と認定されてしまう。
その結果、子どもたちは遊び場所を失っていく。
これってさ。
大丈夫なんか?
なあ、あんたはどう思う?
子どもたちの遊び場が俺たち大人の環境に左右されてしまうって状況は何を生み出してしまうんだろうか?
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