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[小説][バラッド]-序章-①

歌えないオッサンのバラッド
-序章-①

あんたにはなんもかんも投げ出しちまいたくなることってあるかい?

ヒトが社会で生きていく以上はこの手の悩みっつーか、やるせなさってのはついて回るもんだ。

その日も俺は上司からは叱責され、部下からは後ろ指を指され、同僚から憐憫の目を向けられる。
そんないつも通りの一日だったと思う。

今日は息子の真人が夕食担当だったっけ。

おもむろにワイシャツのポケットにある携帯に手を伸ばす。

何回かの呼び出し音が流れた後、電話口の向こうから声が返ってくる。
「もしもし」

今どき、登録されていない電話は出ることもしないから、出るときは相手が分かっているときだ。真人は俺からの電話だと分かって出ている。

「ああ、真人か。今日は遅くなるから俺の分の晩飯の用意はしないで良いぞ」
「なんだよ、下ごしらえしちまったよ。ラップしとくから、明日の朝にでも食べてくれよ」
「ああ、ならそうしておいてくれ」

いつも通りの会話が取り交わされ、俺は夜の幾ばくかの時間を手に入れた。
ちなみに真人は大学生のご多分に漏れず、朝が遅いので基本朝飯は自分の分は自分でが基本になっている。

「………さて、じゃあママのところにでも行くか……」

こう見えても一端の親ってやつだ。
同じダメおやじでも、しょぼくれて顔に「絶望」って書いてあるような状態よりは、酔っ払ってぐでんぐでんになっている方がいくらかマシってもんだ。

そんな事を考えながら、俺は行きつけのスナック「葵」にトボトボと歩き始めた。

スナック「葵」

葵は我が家の最寄り駅の繁華街の中にある。
なんか、ママに聞いた所、前のママが引退するってんでその時のチーママだった今のママが引き継ぐ形で店が存続しているってことらしい。

場所は雑居ビルの二階。1回の入口に紫地に白文字で「葵」と書いてある電飾看板が置かれている。

いかにもというか、なんというかって感じの看板だな。
そんな風にいつも思うんだよな。

看板を脇目に若干急な階段を登る。
そう言えば、このビル5階以上あるのにエレベータないぞ。
いいんだっけ?法律上。

とか、いつも通り意味がない思いが浮かんでは消えていく。

カランコロン

ドアを開けるとドアベルが多少鈍ったような音で鳴り響く。

馴染みの客がもうすでに何人か来ているようだった。

苦笑交じりに声をかけられる。
「よう、田中さんじゃん、元気………でもなさそうだな」
声をかけてくれたやたらとタッパのデカくてゴツい男がそう言ってくれた。
ここでのなじみの客の一人だ。

「まあ、そう言ってくれるなよ。そんな日もあるさ。タカさんは元気そうだな」
「あたぼうよ。元気があれば何でも出来るって偉い人が言ってただろ?」

偉い人ってのは間違いない気がするが若干の言葉にできない違和感を覚えるのは俺だけなのかね?
でも、このプロレス好きの青年のキャラクターにはピッタリの御仁だよな。

たしかにタカさんは今日も元気そうだ。
いったい何に使っているのかわからんけれども盛り上がった筋肉のつまった胸板はきつそうなシャツをパンパンにしている。

「まあ、元気がないとやってらんないからね」
タカさんのはす向かいに座っている中年のおっさんが口を挟む。

「そういうトムさんはちっと元気が無さそうだな」
トムさんこと、富村さんは少し白髪が混じりかけている頭に手をやって少しはにかんだ。
「そうかい?
 まあ、生きてりゃそんな顔になることもあるってこったろうよ」

まあ、誰にだってなんかあるのをこういうところの酒で薄めてまぎらわすもんだよな。

スナック「葵」。

それは明日に向かって歩き出すための何かを探しに来る場所ってことなんだろう。

タカさん

とりあえず、俺はいつものカウンターの端に座って、ママにいつものように注文した。

「ママ、水割りダブルで」
「はい、水割りからしとく?」
柔らかくママは答えて棚にあるI.W.ハーパーの瓶を手にする。
俺のキープボトルだ。

「今日はそうしておくよ。あと、カレーをくれるかい?」
「あらあら、太るわよ?」
「良いんだよ。金曜日とくればカレーと相場が決まっているんだ」

そう言えば、真人が金曜日の当番のときはカレーのことが多い。
しまった。明日の朝もカレーか。
まあ、それはそれで良いかもしらん。
一晩置いたカレーってなんで美味いんだろうな。

ママはグラスに市販の氷を突っ込んで、そこにハーパーを注ぎ、ミネラルウォータをいいれマドラーでひとまわし。

「はい」
あくまで優しげな声色で俺の前に水割りを差し出す。

俺はチビりと水割りをなめて、一息をついた。
葵のカレーはなんのことないレトルトカレーなんだけれど、ここで食べるとなにかを思い出すような気がして、たまにたのんじまうんだよな。

そんなことを考えながら水割りをもうひとなめする。

「なんでぇなんでぇ、全然元気がねぇぞ?田中さんよ」
タカさんは多少ダミがかった声で俺に話しかけてくる。
「しゃあねぇ。いつものやるぞ。田中さん」

やれやれ、これに付き合わないと話も出来ないんだよな。タカさんとは。

すっくと立ち上がって、タカさんの正面に立つ。
タカさんも立ち上がり、真正面から俺の目を見てくる。

身長が190cmはあるだろうガタイはそれだけで威圧感がある。

「ハイ、御唱和ください!」
そういうとタカさんはおもむろにアゴをしゃくりあげてこう言うんだ。
それに慣れたように声をあわせて俺やママ、トムさんみんなで叫ぶ。

「1、2、3、ダァ!!!!」

そうして、その後に決まって大笑いでこのくだりは完成だ。

よくわからんけれども、こうしておけばなんとでもなるらしい。

たしかに今日あった仕事上の課題の話なんて、ホントどうでもいい気分にさせてくれる。
意味は分からんけれども、やっぱり声を出すってのは意味があるんだろうな。
カラオケが無くならないわけだぜ。

その大笑いが収まった頃、葵の扉がカランコロンと音をたてる。

「お店………やってますか?」
消え入りそうな声で少しやつれたように見える女性がそこに立っていた。

つづく


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