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沖縄戦激戦地戦没者慰霊の聖地を守るハンガーストライキから見えたもの


#自分にとって大切なこと


35年目の日本山妙法寺沖縄平和行進は2020年11月、那覇市役所で出発式を迎えた。
そこに、遺骨収集ボランティアガマフヤ-代表の具志堅隆松さんも参加し、挨拶をした。3~4年前に糸満市福地にある琉球ガラス村で行進団と遭遇し、2年前位から出発式に来るようになり、昨年の挨拶で、私たちは南部の遺骨発掘現場が辺野古の埋め立てに使うための採石場となってしまうという話を聴き、平和行進の行程を終えた後、数名で現場を案内して貰った。
その現場を見た平和行進の団長、武田上人は心を動かされ、東京の金牧師等仏教キリスト教の人達と共に、その後の5ヶ月間に三度も沖縄に来て、慰霊祭を行い、県庁、糸満市に要請話し合いに行き、また、オール沖縄と勉強会を行ったりした。

35年間「沖縄戦の慰霊とは基地をなくすこと」と続けてきた平和行進と、37年間遺骨収集を続けてきたガマフヤ-の具志堅隆松さんが期せずして出会った事が、今回のハンガーストライキまでの流れを創りだした様に見えます。

初日はまずテントを立て、座る場所や署名を書いてもらう場所をつくり、準備ができると具志堅さんが県庁に向かってマイクを使い訴えを始めた。

ハンガーストライキは具志堅さん、僧侶三名、一般の方二名で始められたが、連帯して断食をする人がたくさん現れ数は把握できない程だ。
国内では東京、北海道、京都で、そして海外ではニューヨークで連帯して断食が行われ、また集会も行われた。
沖縄の場合、世界各国にうちなんちゅ達のコミュニティがあり、沖縄戦犠牲者の遺骨が米軍基地の埋め立てに使われると聞き、多くが心を痛めていると思う。

ハンスト現場には本当に様々な人達が来た。
「夜勤明けです」と言って、署名をしていった人。
タクシーを止めて署名に来たタクシードライバー。
コロナ病棟の看護師をしていて、テント内の感染の心配をしてくれた看護師さん。

インパクトがあったのは、やはり沖縄戦の体験者達だ。毎日毎日、すでに高齢の沖縄戦経験者たちが足を運んでこられた。
「私の親、兄弟は南部の何処で死んだかも分からない。戦後、何度も何度も骨を探して歩いたが、結局見つからず、南部の石を骨壺に収めてある。」
「あの土地には私達の親、兄弟が眠っている、骨が在る、血が染みこんでいる、それを米軍基地の埋め立てに使うなんて...」と怒りを表す人、悔し涙を流す人、理解できないと不信感を表明する人、彼らの言葉だけでこの計画がいかに沖縄の人の心を傷つけているのかが分かる。

ある夜、寝る準備をしていると、一人の40代前後あたりの男の人が2ℓペットボトルの水をたくさん提げて署名に来た。
喋るのが不自由そうで、申し訳なさそうに署名だけして帰って行った、少しするとまたその男性が現れ、手にはストロングチューハイのロング缶を握りながら話しかけてきた。「自分はアル中なんですよ。すぐ近くに住んでいて、病院の帰りに寄りました。昼にテレビで観て来たかったけど、なんか来れなくて、、、自分、発達障害みたいで喋るのがダメなんで。」と言いながら、手に持っている紙を見せてくれた。そこには彼のお祖父さんの兄弟姉妹の死亡した状況が書かれていた。一種の証明書のようなものだ。「自分のじいちゃんの兄弟も死んでるんで。」お祖父さんの兄弟姉妹三名が沖縄戦で亡くなったようだ。亡くなった状況が書かれている者、何処で亡くなったか分からない者、しかしどの方の遺骨も見つかっていないという。そしてやはり骨壺には石が入っているという。それから勲章を見せてくれた。お祖父さんのお兄さんは鉄血勤皇隊で石部隊に所属されていたらしい。ひとつだけ小さい勲章は妹の物のようで、「天皇のために戦ったからですかね勲章があるんですよ。でも女の人のはちいさいんですよ、女だからですかね。」と話してくれた。

土曜日になると学校が休みのおかげで多くの子供達が来てくれた。自らの意思で署名に行きたいと母親と弟と来た女の子がいた。「五年生です。」とはっきりと話し、メッセージを書く布に『戦争で苦しみながら死んでいった人たちが、いつまでも天国にいけないまま海にしずめるなんてことはぜったいにさせない!!』と書いた。まったく驚いてしまった。その後、彼女は知事に気持ちを伝えたら、と周りに大人達に促され、知事に彼女の想いを伝えた。なんと言ったかは聞こえなかったが、知事の目が濡れていたと、カメラマンが話していたそうだ。

知事はなんとか止めたい気持ちと、法律的にどうやったら止められるのかを模索していると話した。
県外の知り合いと電話で話した、「知事が現場に来るなんて、さすが沖縄だねぇ。他の県ではあり得ない話ですねぇ。」と聞き、あぁ、そうか、他の県ではあり得ないことなんだな、と沖縄の特殊性を再確認させられた。


沖縄戦の意味を再認識する機会

沖縄県南部地域の重要性を理解できなければ、この問題を理解できない。
当時の沖縄県民の4分の1が殺されたという凄惨を極めた沖縄戦。当時、日本軍は首里に司令部を構えアメリカ軍を迎え撃った。しかし、兵数でも物量でも圧倒的な劣勢に立っていた日本軍はやがて、アメリカ軍の攻勢に耐えきれなくなり、首里の司令部を放棄した。この時にアメリカ軍に対し降参し投降していれば、南部地域一帯に逃げていた住民を巻き込むことなく沖縄戦死者の数はもっと少なかった。しかし、日本軍は降伏を選ばず、南部に撤退し摩文仁の丘のガマに司令部を移し、住民を犠牲にしてでも本土決戦の準備の為に時間稼ぎをした。もちろんここで殺されていったのは住民だけでなく、日本軍、アメリカ軍そして朝鮮や台湾・中国から来ていた者も含まれる。
結局、住民約 94000 人、日本軍 94136 人、米軍 12520 人 が犠牲になった。

”なにが大切なのか、決めるのはそこに住む人々だ。島外の人間が決めることではない”

沖縄は明確な慰霊の地を持つ、そこは聖地であり、祈りの場であり、その一帯がお墓である。
北米先住民の土地の権利を取り戻す運動を支援している、沖縄にルーツを持つ友人が、今回の問題を見聞きして、北米先住民の事を思い出したと話した。

沖縄の人を先住民とするか否かは議論が分かれるところだが、沖縄県外の地域同士の共通性に比べると、沖縄の文化と歴史は他の地域との共通性は少ない。その中でも地上戦を経験した事とその後のアメリカ軍の統治時代、米軍基地の存在など、日本本土とは違った歴史を歩んだ。
慰霊の聖地という物を抱える県は沖縄県だけだ。

北米の先住民が自分達の聖地を大事にするように、沖縄の人も南部地域を大事にする人が多くいる。
そう、聖地に手を出してはいけない。聖地というのはそこに住む人たちにとっての帰る場所であり、拠り所であり、心の故郷なのだ。

特に日本本土の人にはその事を理解してもいたい。

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