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偶然も努力も運命にしちゃえば美しい


10年ぶりに500日のサマーを見た。

昔は自分の恋愛経験が乏しかったこともあり「なんだこの身勝手な女は?????」という感想しか抱けなかったけど、今見たらなんかこう、美しいというか、20代の恋愛が放つ輝きに胸がギュッとなるというか、それでいてトムとサマーの心情をフラットに推察できる自分がいて、とても良い映画体験になった。

映画冒頭でも説明があるように、この映画は男女の恋物語ではなくて、物事の捉え方の違いとタイミングの重要性を描いているだけなんだと思う。

「花束みたいな恋をした」でもそうだったように、大衆的じゃない趣味に反応してくれた相手に特別な感情を抱き始めるのが我々日陰者(とうっすら自覚がある者)の悲しいサガで、サマーへの恋心が暴走するトムの気持ちもわかる。

そしてトムと恋人になる気はないのにすることしてるサマーを酷い女だと感じる気持ちもわかる(1回目に見た時の私がそうだった)。

ただ、サマーは過去にもそうやって一方的に想われた経験がたぶん何度もあって、だからこそ最初に“友達になってくれる?”とトムに言ったわけで。

カラオケのシーンでも「誰かの所有物になりたくない」「自分自身でありたい」と明言してるし、“面倒ごとは抜きにして人生楽しみたい"というサマーの価値観は否定されるべきではない。

2人が出会った頃、トムは運命を信じていて、サマーは運命も愛も信じていなかった。
だからトムがとことん恋心に振り回されて暴走して、フラれる。サマーは恋愛関係にはなりたくなかったから。



が、しかし最終的にサマーはあっさり結婚する。それもデリで声をかけてきた男と。

席で小説を読んでいたらナンパされたというだけなんだけど、
「もしデリに来るのが10分遅かったら?」
「違う小説だったら?」
「…てことはこれって運命でしょ?」
なんて宣うサマー。

これにはトムも「まじかよ…」って顔してたけど。

正直トムがサマーと出会った時だって、偶然同じエレベーターに乗って偶然スミスを聴いてたから会話が生まれた…ほら、これも運命じゃん?って誰もがつっこんだと思う。

けどサマーにとってそれは運命ではなくただの偶然で、今回のデリの男は偶然ではなく運命なんだ。

まあ、最初から「運命だわ!」なんてお花畑になったとは思えない。シンプルに見た目もタイプで、その後の付き合いの中でもきっと素敵な部分がたくさん見えて、だからこそ朝起きたらトムには抱いたことのない感情がデリの彼には芽生えていて、「この人が運命の人だ」って確信に変わったんだろう。

タイミングよく良い男と出会ったことを運命だと捉えたサマーがいた、というだけ。

もしトムとの出会い方が違えば彼を運命の相手だと思っていたかもしれない。

要はタイミングと捉え方で、“偶然の産物でも、自分の思いたいように思っちゃうのが人間だよね”ってことなんじゃないかな。

だから、最後にトムが偶然や運命の枠から一歩踏み出してあの女性を誘ったのは、自ら運命の舵を切ったようで一層素敵に思えた。

もしかしたらあの後コーヒーを飲んで、連絡先を交換して、どちらかが採用されてどちらかが違う会社に行ったとしても交流が続いて、いつか結ばれた時に「あの面接が運命の日だった」って口にするかもしれない。

偶然や行動の先に幸せが訪れたことを、総じて“運命”だと言うのは美しい。

だって何をベストタイミングと捉えるのかは自由なんだから。

だったら人生を美しく思えるように、運命すらも自分のものにして楽しむべきだろう。


あとこの映画、やっぱ音楽最高だわ!

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