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令和4年10月9日神州正氣の会講演「教育勅語が『万詔の要約』たる所以について」創造文化研究所 奥野政昭先生

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今月の大阪護國神社、神州正氣の会の講演は創造文化研究所の奥野政昭先生でした。

奥野先生は、三十代から日本人として覚醒め、日本書紀や古事記といった神典に関心を持ち、平田篤胤先生の国学を学び、先代所長の中島剛先生に師事しました。

明治維新後は非主流派となった平田国学の復古も目標の一つとのことです。

師の中島剛先生が口癖のように語った言葉が「教育勅語は万詔の要約なんだよ。」ということでした。

教育勅語は単なる徳目の羅列に非ず、僅か二百十五字の中に、神武肇国以来の神代の神勅が込められている。

教育勅語は明治二十三年十月三十日に国民に賜われたものであり、十月は教育勅語について考える月にしたい。

「万円の要約」たる所以

教育勅語の口語訳としては里見岸雄先生のものが一番正確であり、以下は里見先生の訳に更に補足を加えたものである。

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黒龍会の内田良平先生の「聖訓謹解」によれば教育勅語には大きく三段落ある。

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原文は二段落であり、意味段落としては三段落になる。

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第一段落は教育勅語の主文であり、核である。その中身は國體の真髄、國體の精華である。

國體の精華とは、皇祖皇宗による「肇国(肇国宏遠)」と臣民の「忠孝(克忠克孝)」の相互作用である。

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ちなみにこの、「皇祖皇宗」とは皇祖は神武天皇を指し、皇宗は具体的な帝が誰かはぼかしている。皇祖が天照大御神ではないのは仏教徒やキリスト教徒への配慮とされる。

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教育勅語の核は第一段落と「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼」にあり、第一段落の肇国宏遠から教育淵源は日本という国の理念を示し、「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼」することが目的であり、その為に実践すべき徳行として「教育勅語の十二徳」が存在している。

故に教育勅語は単なる徳目の羅列ではないのである。

まず、日本という国の理念を示す言葉が「肇国宏遠」と「樹徳深厚」である。

国ヲ肇ムルコト宏遠ニ

時間的肇国宏遠、即ち

遥か昔に始まり〜中今(なかいま)=現在〜未来永劫へ

続く日本という国を示すものが「天壌無窮の神勅」である。

吉田松陰は「この神勅ある限り日本は永遠なり。将来を悲観することは神勅を疑うという罪を犯すものである」と説いた。

この吉田松陰が江戸へ護送される途中、宋の文天祥に倣って詠んだものが「正氣歌」である。

(原文)

正氣塞天地 聖人唯践形

其次不朽者 天日与列星 

嗟吾小丈夫 一粟点蒼溟 

才疎身側陋 雲路遥天廷 

東行三千里 眼与山水青 

周海泊舟處 敬慕文臣筆 

厳島鏖賊地 仰想武臣節 

赤水伝佳談 桜留義士血 

和氣存郡名 孰捫清丸舌 

壮士一谷笛 静女芳山雪 

墓悲楠子志 城仰豊公烈 

倭武経蝦夷 田村威靺鞨 

嗟此数君子 大道補分裂 

尾張連伊勢 神器万古存 

琵琶映芙蓉 嵩華何足論 

仰見平安城 奉欽天子尊 

烈々神明國 堂々大道根 

従墨夷事起 諸公実不力 

已破袄教禁 議港洲南北 

名義早已誤 寧遑問失得 

天子荐軫念 四海妖氛黒 

奉勅三名候 鶏棲鳳凰食 

其他憂國者 亦皆溝中瘠 

欻忽五六才 世事幾変易 

幸有聖皇在 足以興神國 

如何将軍忠 曽不拂洋賊 

大義炳明焉 孰惑弁黒白 

人生転瞬耳 天地何有極 

聖賢雖難企 吾志在平昔 

願留正氣得 聊添山水色 

(訓読文) 

正氣天地に塞(フサ)がり 聖人唯(タダ)形を践(フ)む 

其の次に朽ちざる者は 天日と列星のみ 

ああ吾は小丈夫 一粟(ゾク)蒼溟(ソウメイ)に点ず 

才は疎(ソ)にして身は側陋(ソクロウ) 雲路(ウンロ)天廷(テンテイ)遥かなり 

東行(トウコウ)三千里 眼(マナコ)は山水と与(トモ)に青し 

周海舟を泊(ハク)する處(トコロ) 敬慕す文臣の筆 

厳島は鏖賊(オウゾク)の地 仰ぎ想う武臣の節 

赤水(セキスイ)佳談を伝え 桜は義士の血を留む 

和氣は郡名を存し 孰(タレ)か清丸の舌を捫(ヒネ)らん

 壮士(ソウシ)一の谷の笛 静女(セイジョ)芳山の雪 

墓には悲しむ楠子の志 城には仰ぐ豊公(ホウコウ)の烈 

倭武(ヤマトタケル)は蝦夷を経(ケイ)し 田村は靺鞨(マッカツ)を威す 

ああ此の数君子 大道の分裂を補う 

尾張伊勢に連なり 神器万古に存す 

琵琶は芙蓉を映(エイ)じ 嵩華(スウカ)何ぞ論ずるに足らん 

仰ぎ見る平安城 欽(キン)し奉る天子の尊(ソン) 

烈々たり神明の國 堂々たり大道の根(コン) 

墨夷の事起こりてより 諸公(ショコウ)実に力(ツト)めず 

已(スデ)に袄教(ヨウキョウ)の禁を破り 港を議す洲の南北 

名義早くも已(スデ)に誤る 寧ぞ失得を問うに遑(イトマ)あらんや 

天子荐(シキリ)に軫念(シンネン)したもう 四海妖氛(ヨウフン)黒し 

勅を奉ずる三名侯 鶏棲(ケイセイ)鳳凰の食 

其の他國を憂うる者 また皆溝中(コウチュウ)の瘠(セキ) 

欻忽(クッコツ)五六才 世時(セジ)幾(イク)変易(ヘンエキ)す 

幸いに聖皇の存(ア)る有り 以って神國を興すに足る

 如何(イカン)ぞ将軍の忠 曽(カツ)て洋賊を拂(ハラ)わず 

大義炳明(ヘイメイ)たり 孰(タレ)か黒白を弁ずるを惑わんや 

人生は転瞬のみ 天地何ぞ極まりあらん 

聖賢は企て難しと雖(イエド)も 吾が志は平昔(ヘイセキ)に在り 

願わくは正氣を留め得て 聊(イササ)か山水に色を添えん 

(口語訳) 

正氣は天地に充ちており、 それは聖人が守り継いできたものだ。 

その次に不滅であるものは、 太陽と星くらいであろう。 

ああ私は器量の狭い小人で、 海原に浮かぶ一粒の粟のような存在だ。 

才能は乏しく身分も卑しく、 貴い帝の雲井は遥か遠く及ばない。 

護送される江戸への三千里の道のりは、 山水の青色を眺めつつ行こう。 

周防灘は菅原道真公が停泊した場所、 道真公の御心を慕い敬う。 

厳島は陶晴賢を打ち破った場所、 毛利元就公の仁義を仰ぎ想う。 

赤穂の地は四十七士の美談を伝え、 春になると大夫桜が美しく咲き誇る。 

備前の国には和気郡の名が残り、 和気清麻呂公の誠忠の心に感ずる。 

平敦盛は一ノ谷で儚く討たれ、 静御前は雪の吉野山で悲しく別れた。 

墓前では楠木正成公の忠義心に涙し、 大阪城には豊臣秀吉公の偉業を偲ぶ。 

日本武尊は東国に皇威を及ぼし、 坂上田村麻呂も同じく東国を平定した。 

ああこの君子達は、 皇国古来の国体を守り通された。 

今も尾張熱田神宮と伊勢皇大神宮には、 三種の神器が祀り伝えられている。 

琵琶湖の水景と富士の山容は美しく、 中国の嵩山や華山など及びはしない。 

京の御所を仰ぎ見ては、 帝の尊さを敬う心が湧き上がる。 

誠にこの国には烈しく皇威が及び、 大道の根底は堂々と揺るぎないものだ。 

米軍艦が来てから後は、 幕府はその国体を守ろうとしなかった。 

キリスト教の禁令を破り、 鎖国をやめ港を話し合う始末である。 

それらはすでに間違いであり、 損得を話し合っている場合ではない。 

帝はしきりにご心配あそばされ、 国は妖しい気分に覆われている。 

尾張と水戸と越前の藩主は頼りだが、 鶏小屋に鳳凰がいるような状況である。 

その他の多くの憂国の士も、 溝に落ち込み埋れている状態である。 

忽ち過ぎるこの五六年の間に、 世間は目まぐるしく変化してしまった。 

だが幸いにも聖帝の存在があるため、 また国を興隆させることができよう。 

幕府の忠義心はどうなっているのか、 国を外敵から守る使命も果たさない。 

今や幕府を誅する大義名分は明らかで、 それが区別できない者などいない。 

人の生涯は瞬きほど短く、 天地の終わりを知る事はできない。 

聖人賢人になる事もまた難しいが、 私には日頃から持っている志がある。 

どうか正氣を不滅に留めて、 あの君子達の様に山水に色を添えんと。

徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ

徳は大和言葉で「うつくしび」と読む。

黒住教の教えの中にも天津神からの徳(うつくしび)によって私達は施されていると説いている。

以下の図は奥野先生の解釈による宇宙、世界と天上、地下、死後の世界である。

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平田篤胤の神学の特徴は「穢」としてあまり言及されない死後の世界について論じた点にある。ここに仏教やキリスト教も学んだ平田国学の真髄がある。

天皇の徳(うつくしび)〜「しらす」

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天皇は「しらす」存在であり、国の様子を知り、民に寄り添い、国家を一体とすることが天皇の統治である。

これに対する「うしはく」とは力をもって支配することであり、「うしはく」の「うし」は主人、「はく」は身につけるという意味で、主人に民が従属する関係を意味している。

天皇の「しらす」まつりごとの根源が宝鏡奉斎の神勅であり、

吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎の鏡となすべし。

「しらす」まつりごとの三大綱が、養正・積慶・重暉である。

これは、日本書紀に記された神武天皇の御言葉、

「蒙(くら)くして以て正しきを養ひ、この西の偏(ほとり)を治(し)らす。皇祖皇考乃(すなわ)ち神にして乃(すなわ)ち聖(ひじり)にましまし、慶(よろこび)を積み暉(かがやき)を重ね、多(さわ)に年所(とし)を歴(へ)たり」

から、田中智學先生が取り出したもので、「正しきを養い、慶を積み、暉を重ねる」を意味する。

そして、「しらす」まつりごとの現実的展開が神武建都の大詔、

然後兼六合以開都 掩八紘而爲宇不亦可乎    六合(くにのうち)を兼ねて以て都(みやこ)を開き、八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(な)す、亦(また)た可(よろし)からず乎(や)。

から取り出した「八紘為宇(八紘一宇)」である。

克ク忠ニ克ク孝ニ

忠は、単に君主への忠義のみならず、あらゆるものへ示す真心である。

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忠孝一本は中国には見られなかった、日本独特の徳行であった。

中国では祖先への孝は、君主への忠より優先したが、日本では天皇への忠と祖先への孝は一体と考えたのである。

「臣民たるのみならず」とは皇運を扶翼することは祖先の遺風を顕彰する道であることを示していた。

杉本五郎先生の「大義」の中に「神社人」という言葉が出てくる、これは「自分自身が天皇を祀る神社になる。」という心構えを説いた克忠克孝の極みである。

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億兆一心 世々済美

億兆一心とは、各個人が「克忠克孝」の心によって自立し、他人とも認め合って美徳を広げ、人の輪を広げることである。

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その人の輪(運命共同体)が個人から家族、社会、国家、世界へと広げていくことが「大和」の精神である。

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天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ

ここまでの徳目の目的が皇運を扶翼することである。

國體の精華の「華」とは光「ひかり」を示す。

國體を美しく輝かせるには、国民の教育がしっかりしていないといけない。

結論

皇祖皇宗による「肇国(肇国宏遠)」と臣民の「忠孝(克忠克孝)」の相互作用を実現する為の徳行が教育勅語であり、皇祖皇宗の遺訓である神代の神勅や、人代の歴代天皇の詔勅を織り込んだ「万詔の要約」たる所以なのである。

教育勅語に対する誤解

・「義勇公ニ奉ジ」は「皇運ヲ扶翼スベシ」にかかる言葉ではなく、「父母ニ孝ニ」から「義勇公ニ奉ジ」までが「皇運ヲ扶翼スベシ」の為の徳行であり、「皇運の為に奉仕する。」という解釈は誤りである。

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また、現在の保守派や神社界は、批判を恐れたり、啓蒙の分かりやすさを優先するあまりに、最も重要な「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」を訳していない。

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これは、里見岸雄先生の訳文と比較すれば一目瞭然である。

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このような、本質的なことを避ける同じ陣営の者に対しても糺していかなくてはならない。

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