見出し画像

世界は美しいかも、と。

 もし、身近な人が、この世界に失望して、何もかも諦めてしまったら、私にできることは何だろうか。そんなことを考える一週間だった。


 古い友人の状態が、少し前から良くないという一報を受けた。彼は数年前に仕事を辞めて、実家に戻っているということは知っていたが、まさかその理由がそんなに深刻なものだったとは知らなかった。

 彼が実家に戻ってから、一度飲みに行ったことがある。その時の彼はいつも通りひょうひょうとしていて、高校時代から変わらない私の知っている彼だった。
 彼が元気なことに私は安心して、「早く仕事見つけて働けよ、まあニートでいるのも悪くないけどな。ニートって高等遊民ていう呼び方もあるんだぜ」なんてことを酔っぱらいながら言ったのを覚えている。席でタバコが吸える居酒屋で、彼が吸うタバコの量に私は驚いた。彼が3000円しか持っていないと言ったので、帰りの交通費も考慮して、私ともう一人が多めに払った。
 「お前、働いてないのにどこから3000円も絞り出してきたんだ」と私が聞くと、彼は「いや3000円ぐらい持ってるに決まってんだろ」と言った。

 それが2年ぐらい前の話で、私は彼と話したことや、その時の彼の表情を思い出したくてもあまり覚えていない。

 どうして彼は戻ってこられないところまで行ってしまったのだろう。

 なぜ私はあの時、彼の異変に気付けなかったのだろう。気丈に振舞っていることは明らかだったではないか。あの時、「元気で良かった」などと思わずに、何かしら彼に協力していれば、何か変わっていただろうか。


 私が今こうして元気に生きているのは、単に私が、運が良かっただけなのではないかと思ってしまう。
 大学に入って、新しい出会いがあり、性に合ったバイトを見つけて貯金ができ、財布を気にせず色々な本を買って読んだ。国内の色々な場所にも行ったし、ちょっとだけだが留学や海外旅行まで経験できた。
 多感な時期にこの世界の悪い部分に絶望することもあったけど、世界の色々な側面を断片的に見て、「ああ、この世界も悪くないかも」と思うことができた。
 たまたま手に取った詩集の忘れられない言葉、古典文学の中の勇気づけられる力強い言葉、何となく借りた映画の人生が変わるようなワンシーン、初めての一人旅で感じた自由の味、アイルランドで見た300年前の教会の空気、フィリピンで感じた南国の匂い、好きな人と砂浜で眺めた海に沈む夕日。

 私は運が良かっただけではないか。私も何かが違っていたら彼と同じようになっていたかもしれない。

 「もしかしたら、世界は美しいかもしれない」

 断片的に見た世界から、私はこう思うことができる。これが、私の明日を生きる活力である。
 もっと沢山本を読んで、もっと世界の色んな場所に行って、もっと多くの人と話せば、その思いは強くなり確信に変わると信じている。だから私は明日も頑張って生きようと思えるのである。もしその活力がなかったら、私はベッドから起き上がれなくなっていたかもしれない。

 
 彼にも、というか、この世界の見え方が少しどんよりとしている人たちに、この世界はそんなに悪くないよ、と伝えるにはどうしたらいいだろうか。この世界はそんなに悪くないかも、と感じてもらうにはどうしたらいいだろうか。


 そう言うだけでは伝わらないことは分かっているが、私が彼らに伝えたいのは、

 この世界は美しくて、そう思わせるようなことは、誰だって手に届く場所にあるよ

 ということである。

 時間がかかってもいいから、また飲みに行って、高校の時の思い出話でもしようぜ。

 

 


 

 
 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?