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成田からテヘランへの帰り道

就職して以来、人生でこれほど飛行機に乗るとは思っていなかった。
初めて飛行機に乗ったのは高校生の修学旅行の時であり、それ以外の国内旅行は飛行機よりも電車や新幹線が主流であり、飛行機とはあまり縁がなく過ごしていた。

しかし、出張では年に1回ぐらいは飛行機に乗る事はあったが、縁あって海外への赴任が決まり、テヘランで過ごした3年間は、国外出張やら日本帰国やら休暇やらで、当時のメヘラバード空港と成田空港をよく往復していた。
ちなみに、イランエアーのジャンボは胴体の長さが短くて、見た目はとても格好悪い。シャー・パーレビ(王様)の時代(革命以降は米国製の飛行機は買えない)に、早く飛ぶために胴体を短くしたものを購入したらしい。そんなに急いでどこに行っていたのだろう?

日本へ帰るのを急がない時は、ヨーロッパ(ロンドン、フランクフルト、チューリヒ経由)かドバイ経由で日本間を往復した。
急ぐときは、当時は直行便があったが、いつしか北京経由で日本の成田に着くが、当時は北朝鮮国境間際を通って韓国上空を“避ける“ルートであり、北京から上海を経て長崎から成田ルートであり、4時間も掛かった。
イランエアーのいいところは、ホマ・クラスというビジネスクラスがり、そこではキャビアが食べ放題だった。おかわりもできたが、もちろん、アルコールは一切出ないので、白ご飯を持ち込みしたかったぐらいだった。

ある時、テヘランからの便が成田に飛ばないとのことで慌てた。当日はボスの夫人の医療用品を持って帰るところだったので(日本に帰ることとなると同僚やボスからたくさんの買い物を頼まれるという、大変な役割があった)なんとしても予定通りにテヘランに帰らないといけない事情だった。

そこで、夜の8時ごろにインボランタリーで席を提供してくれる航空会社をイランエアーの代理店である日本航空に探してもらい、エアフラ(エールフランス)を交渉で確保してくれた。しかも、ホマクラスと同等のパリ行き最終便のル・エスパスクラスであり、確保できた時は、キャビアはもう飽きたのでw、今度はフランス料理が食べられる!と喜んだが、すぐに最初の難関に気づいた。

成田の第1ターミナルから、エアフラの出発する第2ターミナルまで総重量150kgの箱+スーツケース2つを抱えて移動しなくてはならないのだ。小さい子供を抱えて、大きな箱5箱をターミナル移動のバスに乗せることができた時はほっとした。これから起きる事件にも気づかずに。。。

エアフラなので、パリの飛行場は物悲しいオルリーではなく、シャルル・ド・ゴールに着いたのも嬉しかった。そこからエアフラでジュネーブへ飛び、そこからは残念ながらイランエアーに乗ってくれとのことだった。半日はジュネーブで遊んで散財し、夕方便のイランエアーでテヘランに向かうことになった。事件は、その便で起きた。

ジャンボ機なので、イランの偉い人用に2階席があるが、2階席が満席なのか、あぶれた下っ端のモッラ(宗教坊主)が自分の隣の席に座って、イライラしていた。家族で5席も確保していたが、下の娘が小さくて、嫁に抱かれて寝ていたので、娘の席が空いていたのをモッラが見て、「お前はあそこに行け」と高圧的にのたまった。
自分は落ち着いて、あそこは娘の席で、これから起きたら座るので、空けているのだと説明したが、それが気に入らないようであり、また、イライラしていた。そして、クルーに何か指示をするのを聞いていた。

そうするうちに、夕食のサービスの時間となり、夕食を摂ったところ、急激にお腹が痛くなり、そのままトイレに駆け込んだ。すっきりしたものの、今度は急激な眠気に襲われ、6時間のフライトでテヘランに着陸する寸前まで、嫁に起こされるまで気絶状態だったとのことだ。ひどい事件だったが、確証は無いので、クルーに文句も言えずに泣き寝入りした。おかげで、お腹の掃除もできて、さらにぐっすりと眠ることができて、体調は良くなった(笑)
あとで、同僚に聞いたところ、イランのモッラたちは権力を用いて、クルーとつるんでなんでもありありで、下剤と睡眠薬を混ぜた食事を喰わされたのだとの解説だった。もう少しひどくモッラと喧嘩していたら、今頃はもっと元気になってイランの天国に生まれていたかと思う(笑)

この事件以降、どんなに急いでいても、キャビアが食べたくてもw、イランエアーに乗ることは全く無くなった。急がば、周われだ。(了)

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