見出し画像

人の気持ちが分からないから社会科目が苦手だった

私の得意科目は数学だった。特別視していたり一番好きだったりしたわけではなかったけれど、他科目と比べたら得意だった。

きっと私の思考回路と相性が良かったのかもしれない。真実探究的というか、人間の裏表とかではないシンプルで包括的で抽象的で論理的な性質。そんな数学の性質がとっかかりやすかった。

けれど、私のこういう考え方は数学をする以外の場面では大きな弊害であったように思う。実際に関係しているかどうかは分からないが、私としてはそう思っている。

例えば、私はテストで分からない問題の答案を埋めたりしない。周りが言うものだからやってみたことがないわけではなかったが、試してみて嫌だったからやめた。
実際に誰かが罰するわけではないはずで、損もしないし、むしろ得をするかもしれないのだからやればいいじゃないかと思うのだが、できなかった。

学校の先生もそれを推奨していたし、それをやらない方がいいと言う人は誰もいなかった。少し寂しかった。

この自分の性質は大事な局面でさえ変わらなかった。
私は大学は数学を専攻する学部コースを選択したのだが、その入試で、一つだけ最後まで論理を組み立てることができなかった。

学校の先生はとりあえず書けることを書くように言っていたが、私からすると、論理が完結していないものを書くことなんてできなかった。不完全なものを提出するのが嫌だったのである。

いや、というよりは、嘘をつくのが嫌だったのかもしれない。
分かっていないし、根拠もないのに、答案に何を書けと言うのだろうか。

人生を左右するような場面なのだから、そんなことを考えない方がいいことは分かっていたが、私はどうしてもそういうことができない。


これが数学と何が関係あるのかと言う話なのだが、数学というものは嘘をつかない素直で正直な側面があると思っている。
ただ陽が昇るように、花が花として咲くように、雨が降るように、ただそのものがそこにあるだけであり、そこには嘘や誤魔化しがない。それが数学の性質で、私はその発想がやりやすかった。

一方で、社会は苦手だった。
歴史を勉強していても、何をしているのか理解ができなかった。
例えば、ある国が別のある国に進軍したらしいということを習った時、私は「スポーツ大会でもしにいくのだろうか」ということを半ば本気で思った。スポーツ大会だったかどうかは覚えていないが、とにかく「進軍」の意味が分からなかった。いや、辞書的な意味は知っている。おそらく「軍を率いて侵攻すること」な気がする。

しかし、私はなぜ侵攻するのかが分からなかった。
もちろん侵攻の意味も知っている。私が理解できなかったのは、なぜ人を攻撃するのかということだ。

「領土を広げるため」だと言われても、なぜ領土を広げるのかが分からない。
「なぜ領土を広げるのか?」という問いにはおそらく「資源の確保」など様々な理由があるのだろうが、別に手段はいくらでもあるのに、なぜわざわざそんなことをするのか分からない。

授業では歴史上の出来事の説明はされても、その背景にある気持ちや人間の姿は説明されないから、そのせいで理解ができなかったということもあるような気はするが、おそらく説明されたところで分からなかったはずだ。
なぜならその発想を自分ができないからである。

勉強には暗黙の了解が組み込まれている。
例えば「人には固有名詞がついている」ということだって、この社会を生きていなければ身につかないし、「自動販売機」という単語を聞くことも、人生で自動販売機で何かを買うか、それをしている場面を見なければいけない。

社会科目はその「自動販売機」が分からないという状況だった。
授業内で「大統領」と言われても、なんのことか分からない。特に私はテレビが実家からなくなったし、新聞も取っていなかったし、ラジオも聴くわけではなかった。
全ての情報が遮断されていたから、授業内で当然のように出てくる単語が分からなくて困った。
いや、困っていたことにすら気付いていなかった。

数学は社会の何も知らなくていいから楽だった。授業外や日常生活で取り入れる必要のある前提情報なんてほぼ必要なかった。
人間が概念として持っているもので、この世の現象だから見たことのないものがなかった。
もしかしたら私は数学が得意だったというよりは数学以外できようがなかったのかもしれない。


中学の頃は人の気持ちが分からなくて苦労した。

例えば、みんながどうして競技性の部活に熱心になっているのかが分からなかった。聞けば楽しいからだと答える。
もちろん楽しいという感情は知っているが、なぜ競技をして勝つことが楽しいのかが分からなかった。
競技をすれば負ける人がでてくるわけで、そんな姿を見るのは気持ちのいいものではない。誰かに嫌な思いをさせて得られるものが喜べないかった。

だから成績で順位をつけるのも嫌だった。自分自身は上位だったから、普通の人だったら喜んでもいい順位だったけれど、私はそれよりも下位が作られてしまっていることが嫌だった。
余計なお世話だから言わなかったが、私は「最下位の人はこの成績順位をどんな気持ちで見ているんだろう」と思っていた。

本当に余計なお世話だ。

みんなが競争しようと息巻いているとき、特に勉強は手を抜くことができない。
なぜなら順位よりも実際に将来に関わるものだし、自分自身の理解度を測るものなのだから、他人は関係無い。

しかし対戦ゲームやスポーツのような競技になると、いかに負けるかを考えなければいけない。
もちろん一緒にやっている人たちが爽やかな気持ちで参加してくれていたら特に何も感じないのだが、本気で負けるのを嫌がる人がいると、その状況を作りたくなくて手を抜きたくなってしまう。

もちろんあからさまにそんなことはできない。
そしてそれは礼の欠いた行為な気がする。けれど私はそもそも礼というものを重要視する人間でもないから、ただ自分が嫌なものを避けたかった。

なぜみんな勝つと嬉しいのだろうか。それが腑に落ちないままここまできてしまった。勝負の場面になると気持ちを整えなければいけないというだけでストレスなのである。

人の気持ちも、実際に人と接していなければ分かるわけがない。
様々な感情は様々な人の気持ちに接しなければ分からない。

数学は最も単純なように思う。
知るべきことが少ない。人生経験も必要無い。社会のことを知らなくてもいい。共感もしなくていい。
私は数学の檻が心地よくて、少し人を遠ざける癖があるようだということに最近気がついた。

生きているだけでいいや。