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死人に命の水

 自分が死んでも社会に迷惑がかからないなんて思っていない。
 冷たい冬の窓ガラスに触れているだけで涙が出てくるから、それだけで「だから死んでもいいでしょう?」と言っているけれど、許されるだろうか。

 この世の中のことを何も分かってないわけじゃない。それなりには分かっている。でも、分かっているのにどうにもできない自分に苛立ってしまうんだ。この世に生きる全ての人間が社会の一員で、一人一人が責任を持っていて、だからこそ自殺は身勝手なことで、人に迷惑をかけてしまうことで、自殺を認めてしまえば社会は維持できなくなる。
 この社会のサイクルを考えると、人は自殺してはいけない。

 それなら、苦しい時はどうしたらいい。外の工事の音を聞くだけで死にたくなる人はどうしたらいい。
 全てが嫌になってしまったとき、社会の一員だというのなら助けてくれる人がいてもいいじゃないか。それなのに、本当に助けてくれるわけではないじゃないか。身勝手なのはどっちだよ。

 雨が降った日に、外に出ようとして気づいたことがあった。靴がずいぶんカビてしまっていたのだ。久々に外に出る用事ができたと思っていたのに、裸足で出ていくしかなかった。外のアスファルトは冷たかった。

 街を歩くのが嫌で、公園を歩くことにした。
 鳥の鳴き声も聞こえなくて、虫の動きもなく、世界は雨の音でうるさいのに静まり返っていた。
 僕の耳を通る音が、僕のどうしようもない死にたさを増幅させていく。
 命はないのだ。ここにはないのだ。僕も、ここでなら一緒になれるような気がする。

 大木の下は大抵の雨が遮られていたけれど、ところどころが水溜まりになっていた。葉を伝って、凝集した雨水が決まった場所に落ちているようだ。
 萩のうねりは雨水を逃さざ、常にうるおっていた。

 生命にはエネルギーがあるのだから、それなら僕は生命ではないと分かって、よかった、と安心できた。
 水は生命の塊で、動きを続けている。情動を向けてくる。流転しているその様に、そんなものを感じた。

 砂山を眺めていると、一人の男の子がやってきた。
 傘も持っていない。雨合羽も羽織っていない。その子は僕の方は一度も見ずに、一直線に砂山に向かっていった。
 砂場に誰かが作ったらしいそれを、男の子は足で崩していく。雨に削れて歪になっていたその砂山がいとも簡単に崩壊していく。
 その男の子は、命の情動を持っていた。水を纏って、情動を振り乱していた。
 ぐずぐずになった靴で、原型を失った砂山を踏みつける男の子の様相は、きっと尋常なものではない。でも、なんだかそれが心地よかった。僕にとっては、その男の子の行動がしっくりきたのだ。

生きているだけでいいや。