ふれしゃかフェス「ダイバーシティにふれる」の感想

2020/7/5開催の『ふれる社会学』のトークイベント、「ダイバーシティにふれる」の録画を拝見しました。

自分に引き付けて考えざるを得ない面白い議論で、
大学卒業以来の「社会学ってこういう面白さだな〜!」という感動がありました。

以下、拙い文章ではありますが感想を書きます。

好きなものを批判することの苦しさについて

今回のトークイベントで予想外に面白かったのが、好きなものを批判することについての話でした。
何かを好きでいる・応援することと、その問題点を批判することは、ちゃんと両立できるはずなのです。

でも実際、好きなものを批判すること/されることに強い抵抗感のある人って多いと思います。

いわゆる「全肯定オタク」というか。
好きなものの好きな面だけを見ていたい、
難しいことは無粋だから持ち出さないでほしい。
そういう気持ちは、身に覚えがあります。

ですが、「自分の好きなものに、自分の感性を殺されてしまってどうするんだ!」みたいな。
好きなものだからといって、自分の違和感を押し殺すことは、あまりしたくないと思っています。

自分の好きな・応援している・面白いと思うものが、誰かを傷つけているかもしれない。
あるいは、実は既に自分が傷ついていて、それでも推し続けているかもしれない。
私は、そういう違和感を、苦しくてもちゃんと持てるオタクでありたいです。

一方で、これは自戒ですが、
自分の好きなものについての批判に出会ったときに、好きなものを否定されたような悲しさでいっぱいいっぱいになってしまって、上手く飲み込めないことも多々あります。
冷静にならないといけませんね……。

好きなものが適切にアップデートされることを願える良きファンでありたいものですし、

「良きファン像」というものが、盲目なフォロワーではなく、適度な批判のできる人であってほしいと思います。


交差する多様性

トークイベントを通して出てきていたのが、
マイノリティも一枚岩ではなく多様であるということ
「インターセクショナリティ(交差性)」という言葉で表されるもの
の重要性だと思いました。

そして、マイノリティも多様であるということを言ったときに「みんな違ってみんな良い/みんな違ってみんなしんどいよね」で済まされてしまう(=マジョリティの権利性の解除に使われてしまう)ということも話されていました。

「複合的なマイノリティ」とか「マイノリティの中のマイノリティ」の話、興味があったので
ふれしゃかで「インターセクショナリティ」というキーワードに出会えてありがたかったです。

マイノリティの活動ってなんか……簡単でわかりやすい主流が想定されているというか。
例えばLGBTの問題解決=はいはい、同性パートナーシップね、あと、だれでもトイレね。みたいな。それでちゃんちゃん、なわけないじゃないですか。
救われる人もたしかに居るでしょうけど、救われない人の声がかき消されたようで虚しい。

そもそもマジョリティにも、人それぞれの大変な状況があるでしょう。
(マジョリティとは「気にせずにすむ人々」……とすると自らを"マジョリティ"とは認識しないでしょうけれど。)
射程は広く、交差するいろいろな要素を巻き込んで、構造全体を揺さぶってこそ、だと思うのです。

でも「ひとりひとつの個性だから、それでいいじゃない」という結論になってしまったら、
「たった今、その"個性"とやらのせいで困っていること」が無視されていく危機感もあります。

目の前にいる、複雑なものを抱えたこの人が、どうか救われてほしい。
そういう気持ちを、どう実現できるのか、自分なりに考えていきたいなぁと思います。


これは個人的な経験なのですが、
フェミニズムだったり、"属性によってアンバランスな状況に追いやられてしまう社会構造がある"という考え方が必要そうに見える人こそが、「フェミニズムは私を救ってくれない」みたいなことを言っていたり、
「わざわざ取り上げていただかなくて結構です、困っていないので大丈夫です」と言っていたりして、切なくなることがありました。

1つの意見は必ずしも代表例ではなくて、あなたをエンパワメントするようなあなたのための考え方がきっとあるし、
見て見ぬふりをすれば差別がなくなるわけじゃないのと同じように、気にしないようにしていれば気にしないといけない状況が解消されるわけでもないのになぁ、と思ってしまいます。


一介の会社員が思う「ダイバーシティ」

ダイバーシティ・マネジメントについて、
"多様な人たちを受け入れよう"式に、今から入ってくる人(例:末端労働者や学生)のダイバーシティのことばかり語られていて、
構造自体(例:経営者たちや教員)のダイバーシティはどうなっているのか?
という話がありました。

悲しいですが、今、私は古臭い感じ(笑)の会社で働く一介の会社員です。
女性がお茶を出すかたわらで、オジサンばかりの会議室で物事が決まっていく企業のことを思い出しました。
鼻で笑うくらいの"ダイバーシティ"です。

ある会社に勤めていると、
目の前のことに追われて構造そのものに疑問を持つことが難しいというか、
会社で頻出する言説を少しずつ内面化してしまうなぁとつくづく感じています。

年功序列で既婚男性だけが無徴で、そうでない人は自分の属性をやたらと気にしなくちゃいけなくて、あらゆることが損か得かに回収されてしまう。

だんだん、それ自体には疑問も覚えづらくなってきてしまいました。
全部に噛み付いていると疲れ果ててしまう、徒労感のせいでしょうか。
でも時々、自分を守るためにも、頑張って違和感を呼び覚まさないといけないですね。

会社で頻出する言説に、すり減るものもあります。
最近は"夜の街"はああだ、"外国人"はこうだ、と
あたかも、こちらは"昼の街"であり"日本人"しかいないかのような話ばかりです。
本当に悲しい。
自分の特権に慣れてしまっては、この悲しさすら感じられなくなってしまうんじゃないかという恐怖もあります。

当たり前のことですが、いろんな人がいます。
それを忘れずにいたいです。

こうしてヒントをもらえるような機会(ふれしゃかフェス!)もあったので。

「多様性の尊重」と言ってしまうと綺麗事かもしれませんが、
言える時にはしつこく言い続けていきたいですし、信じ続けていたい、というのが感想です。


考える機会をくださった登壇者の皆様・どん浴さん・関係者の方々に感謝を込めて
ありがとうございました!

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