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平和について

今朝、起きたら、飼い猫が死んでいた。
昨日、指に水をつけて、猫の口を濡らしても、舐めなかった。息をするだけだった。夜、ダンスの練習から帰ってきて、居間に目をやったとき、家族の膝の上にいなかった。テレビを見ている家族の膝の上が定位置だった。猫は家族のすぐ隣で横たわっていた。

そのときの、そのままの形だった。少しだけかたく、少しだけ冷たい感じがした。
毛並みは昨日と変わらないように感じた。いま、ダンボールの中を覗いても、一瞬眠っているように認識してしまう。

電話で、ペットの火葬屋に火葬を依頼した。火葬設備を備えた自動車が訪問してくれる。本来はその場で火葬してくれるサービスなのだが、京都市では路上での火葬が条例で禁止されているらしく、別の行政区に移動してから火葬するらしい。
コールセンターに電話して、住んでいる場所、ペットの種類を告げて、重さを尋ねられた。スマートフォンを耳に挟みながら、段ボール箱ごと体重計に載せた。2キログラムだった。地元のサービス担当者からの電話の来るのを待った。地元のサービス担当者は、死んだ飼い猫のことを「お子様は」と言っていた。
ついでに骨を粉に粉砕するオプショナルサービスも追加した。家族はしばらくしたら、ベランダの植木鉢に撒く、と言っている。

合計3万円弱。
今日は忙しいらしく、粉になった骨が返ってくるのは明日になるのだそうだ。


昨夜はぐっすり眠ることができた。明け方に不思議な夢を見た記憶がある。夢の内容は、はっきりとは思い出せないのだが、畑かどこかで、自分が生き残ることと、自分が犠牲になることとは、ほとんどいっしょのことで、そういうのは倫理ではないよな、としゃべっていたような覚えがある。

自分だけは生き残らなくてはならない、と行動する人もいる。大切な人のためになら自分は犠牲になっても構わない、と思いながら生きる人もいる。もちろんそのような振る舞いで事態を打開しなければならないときもあるだろう。でも、自分を知り、他者とつながりながら、できる限り、そのどちらの極端にも走らないで、派手ではない、地道な折り合いをつけていくことが、ある種の平和を生きている人にとっての、成熟する、ということなのだと気がついた。

「ある種の平和」とは、残酷さがつねに最小限になるよう押し返し続けることで、かろうじて維持されていく部分のこと。そのような種類の平和だったら、いま、ここにあると思った。

ここまで書いて、ようやく、ちゃーちゃんの維持してきた平和が見える。自分が飼っていた猫のことを、ちゃーちゃん、と名前で呼ぶことができる。

ちゃーちゃん。

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