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日記 虫の知らせ

時折、脈絡なく呟きたくなる。
昨日はこんなことを考えていた。

人生には、大事にして楽しみに読み進めていた本を、突然取り上げられるような事態が起こる。
本が手元になくなるのはがっかりするけれど、だからといってその本を嫌いになるわけじゃない。

たしかに続きを読みたかった、とは思う。自分で決めて手放したものではない分、悲しいし寂しい。

できれば大切なものは側に置いておきたい。だけど、もっと大切にしなければならないものの前で、それは無力だ。例えば生命と引き換えに、なんて言われたら差し出すしかない。

不思議とそこに迷いはない。満たされていたのかもしれない。その先のストーリーや、いまここに手にしているという身体感覚はどうでもよくて、こんなに大切にしたい本に出逢えた、ただそれだけの事実で気持ちが満たされる感覚が、たしかにある。

いったん離れて遠くから敬愛することは、想いの強さとは全く別で、近いから強いし遠いから弱いというものでもない。アクセスしやすいかしにくいかという問題はあるけれど。それに、アクセスしやすいから自分の想いが伝わりやすいとも限らない気がしている。


ただ、今は離れたばかりだから、そう思いたいだけなのかもしれない。



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今思えば、虫の知らせだったのだろう。


そんなことを考えた夜、本当にもっと護りたいものができて、わたしは約二年間続けたTwitterのアカウントを削除した。

ブランクはあったが、約二年間自分が感じ考えたこと、noteやたわいもないやりとりで交流してくださった方々、最近では国内や海外の美しい風景写真など、かなりの量になる。自分の好きを存分に深めた二年間だったし、普通に生活していたら絶対に出逢えない方々だったし、そんな皆さんにたくさん励ましてもらったし、考えさせてもらった。


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ちょうどアカウントを削除する前日、近くの公園で素敵な木を見つけた。

近づくと、赤い小さな実がたくさん見える。赤い実は一つ一つがつやつやして可愛かった。少し引いて全体像を見てみると、今度はおびただしい赤い点々にものすごい母性を感じる。この赤い実のすべてに命がある。それを全部抱えて立つ母性。

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自分が本当に好きだと言えるもの、大切だと思えるものは、どこからどう見ても素敵なものだ。近くで赤い実を一つ一つ見ていたら、この木の圧倒的な母性には気づけなかったし、全体像だけ見ていても、小さな実が持つ愛らしさに気づけなかった。

人や物との出逢い、くっついたり離れたりする過程にはこんなところがある。
だから離れてみることは決して悪いことばかりじゃない。

月日が経てば、わたしの中で木の形や色はデフォルメされていく。だけどこんな木があってこう感じた、という驚きや喜びだけは、きっと色あせないだろう。


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不思議だよな。
魅力的なものは人のハートを奪っていくって言うけど、奪われたのは言葉だけで、あとはもらったものばかりなんだ。たくさんのものを、胸に残していくんだよね。交わした言葉の数は少なくても、心は満ちてたぷんたぷんになって、わたしはその温かさに抱かれて眠るんだ。




だけど。

夜におやすみが言えないのは、寂しいよ。

昼間はね、一人でもみんなが同じ空の下にいて、同じ太陽を見てるって、そんなことを思った。
そして、今日はとても晴れた日だったから、CoccoのRainingを思い出していた。

わたしは無力で
言葉を選べずに
帰り道のにおいだけ
優しかった
生きていける
そんな気がしていた

夜になって、わたしはいつもみたいに困り果て、疲れ、また消えたくなった。
わたしの輪郭はボヤけて、すぐに消えそうになる。


明日は大切なお話の日。
朝から大雨になるらしい。

少し、こわい。




だから、わたしがここにいられるよう、この道をまた歩き出せるよう、今夜ここでおやすみを言わせてください。
夜にたどり着き、誰かにおやすみを言うことを微かな希望として日々を送ってきたから。


突然いなくなって、ごめんなさい。
温かく接してくださった方々、本当にありがとうございます。

いまは、少し遠くから敬愛しています。

でもきっとまた、辛くなったらnote書きます。離れるって言っておきながら、全然離れられていないんだけど。

自分が消えないために。
情けない自分をどうか許してください。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。



それでは、また。

幸せを祈ってます。




おやすみなさい。




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