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浅く広く読むこと

マエダさん:

新年あけましておめでとうございます。

昨年はおしまいのほうでとうとうお目にかかれましたね。想像のとおりの大変やさしそうな方でした。そうそう、それと、「読書型の首の角度」をされていらっしゃるなあ、と瞬間的に感じました。

「読書型の首の角度」というのは今つくった言葉です。あまりお気になさらず。

でも、わかる人にはわかるかもしれません。具体的にどういう角度であると言語化することはできませんけど。本に対して様々に向かいあう人は、たいがい、あなたのようなオーラを発しています。なんでしょうね。そのうちこれだと言える日がくるだろうか。




「何を読むか」、あるいは、「どう読むか」について。

先日から読み進めているKindle版の『新記号論: 脳とメディアが出会うとき』の中に、「ハイパー・アテンション」(過剰注意)と「ディープ・アテンション」という言葉が出てきました。

この本はよく売れているようですね。


ハイパー、のほうは「過剰な注意」と訳されています。デジタルメディア環境が充実した現代の人々が、あれにもこれにもマルチに注意を向けることを差すそうです。八方美人なかんじです。

これに対して、ディープ・アテンションというのは、直訳すれば「深い注意」。ひとつのことに持続的に集中力を注ぎ込み続ける、カラマーゾフの兄弟を一気読みするときに求められるような状態を差すそうです。

『新記号論』の序盤では、読書によって鍛えられていた人間のディープなアテンションが、デジタルメディアに移行した時代では発揮しづらくなるのではないか、あっちもこっちもつまみぐいする習慣の中では深い集中がうまく育成できなくなるのではないか……みたいなニュアンスの話がでてきました。

遠回しに「紙の本を読まない今の若者はちょっと注意力が散漫だよね」的なニュアンスを感じました。まあなんかちょっと雑な理屈だなーと思ったりもしました。現代脳科学はもう少し先まで探り終わってるような気もするんだけどな。

でも、ま、新記号論自体は大変におもしろい本です。早く読み終わりたいです。



で、さっきのハイパーとディープの話に戻りますが、ぼくはそういえばどっちの注意をしているんだろうなーと思いました。

どう考えてもハイパーなほうです。何をやるにも「ながら」です。

ツイッターしながら仕事をするとか。

『新記号論』を読みながら『アフタヌーン』の最新号を読みつつ『デッドライン』を読んで『天気の子』のノベライズを読むとか。

「どう読むか」についてはぼくはもっぱら八方美人読みなのです。


『脳の中の幽霊』を読んでから『タコの心身問題』を読んで、『なぜ私は一続きの私であるのか』を読んでから『記号論』に突入したとき、ひとつひとつの細部はまったく頭に残っていないのに、とにかくこれらを一気に読んだ先に何かが見えてくるんじゃないかなーという予感がずっとあって、実際その通りでした。一冊一冊を深く読んだらもっと違った感想が手に入るのだろうな、それはよくわかっているんですけれど、なんだかそういう、浅く広く読みながら自分がもぐる場所を探しているような状態なんです。

まだきちんと潜水したことはないんだけれども、このあたりの海には一通り魚群探知機を向けてみたい。海底の起伏を見てみたい。どことどこがつながっているのかをもう少し知りたい。いまさらと言われても。

こうやってみているとなんだか頭の中に地図ができてきて、こないだ回遊していた海の特徴がほかの海を見ることでさらに理解しやすくなったりするなーと思っています。


ひとつの本を深々とさぐっていく「以外の」やりかたで本を読むのが2019年のやりかたでした。おかげで自分でもちょっと経験したことがない量の本を読みました。


で、2020年は、そろそろアクアラングをつけようかなと思っています。

たぶん哲学の海にもぐると思っているんですけれど、もしかすると、ちょっとずれたところにある別の海に潜るかもしれません。とりあえず手元には、正月休みで読み切れなかった、『ヌメロ・ゼロ』がぼくの指先を今か今かと待っています。


では本年もよろしくお願いします。

ペースは月に1~1.5往復くらいでいきましょう。ゆっくりじっくりと。

(2019.1.10 市原→前田さん)