ただひとつ、特別扱いの欲
にしのし
お元気ですか。私は元気です。それなりに。
(それなりに、を付けたほうが、今のぼくの脳のふんいきをより丁寧に描写できるかなあ……)
みたいなことを考えながら、手紙を書いています。
感じていること、思っていること、考えていること、言葉にできていること。それぞれ全部違うよなあ。だからいつも「どこまで言語化したものか」と考える。それが楽しいし、それをやりたいなと思っている。
「言語化したい」という、かなり圧の強い欲望の話。
感じているだけじゃ我慢できなくて、なんとか言葉にしたい、なんとかストーリーにしたいと考えることにはなんらかの、ドーパミンかアドレナリンか知らんけども、報酬が関与しているような気がする。
小さい頃の自分が考えていたことを今の自分が言語化すること。
やる。いつもやる。小さい頃だけではなくて、さっきの俺は、昨日の私は、昨年のぼくは、10年前のボクは、20年前のおれは、30年前のわたしは、何を思っていたのかと言語化する。明日も明後日もきっと当たり前のように。
さて、タイムマシンに乗って未来にやってきた「小さな自分」は、「大人の自分」が勝手に言語化に「成功」した表現を、どのように受け取るだろう。
小「は? ぜんぜん違うよ 何それ 意味わかんない」。
大「いやいや、君はまだ小さくて、言語化ができていないだけで、きちんと解析すると、こうやって言いたかったはずだよ」
そうだろうか。
言語化が、感じよりも思考よりも「正しい」ことなどあるだろうか。
言葉にしたこと、考えていたこと、思っていたこと、感じていたこと。そのさらに手前にある……という……「無意識」。
無意識と意識をつなぐものはなんだろう。それもまた「言語」だろうか?
「無意識でやっていることを解析すれば、今は無理でも、機械が進歩すれば、AIが発達すれば、いずれはぜんぶ言語化できる」?
うーむ、幻想では。
無意識は言語化しきれまい。
では、まあ、無意識はあきらめるとして、「意識」ならば言語化したいなあ、と欲望してしまうわけだけれども。
「行動したからには意志があったのだろう」とか、「ああやって言ったからには理屈があったのだろう」と、つまりは意識的にやっていることならば言語化できるだろうと結論するのも、おそらく間違いなのであろう。
かつて言葉に出来なかった体験や、なぜかわからずやってしまった行動などというものは、言語化能力が突き抜けるほど高ければ言語化できるというものでもなくて、そもそも、言葉の存在しないフィールド・曼荼羅内をほとばしるシナプスの発火の複雑な結果が、体験それ自身として、行動それ自体として、因果を超えて、ただそこにポンと表出しただけのものではなかろうか。
子どもの頃の自分を言語化するということ。
それはまあ……今の自分のために必要なだけで、当時の自分に差し出せるものではないのではないか。
今の自分のために必要なだけ。
我々がなにかにつけて言語化したがるのはなぜか。
「自分がなぜこう考えて、こう行動しているのか」を物語に落とし込みたがるのはなぜか。
それは言語化して説明したがる欲である。「因果説明欲」。食欲とか睡眠欲とか性欲よりも強くて我慢できない一大欲求がここにある。
この欲が、常に、「今の自分」にとって必要なのは、なぜか。
欲動、感覚、いずれも納得できる。
自分の精神が過去から未来へ受け継がれていることを確認するために必要な欲。
食欲は悪ではない、暴飲暴食しなければ。
性欲は悪ではない、姦淫しなければ。
言語化の欲もまた悪ではない、しかも、なんと、むさぼるように言語化しても、それもまた悪ではない。あらまあこれはまたずいぶんと、特別扱いをされていることで……。
感じていること、思っていること、考えていること、言葉にできていること。それぞれ全部違うよなあ。だからいつも「どこまで言語化したものか」と考える。それが楽しいし、それをやりたいなと思っている。
(2022.11.18 市原→西野)