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ヒゲとドワンゴでヒゲンゴだ

にしのし


暑い盛りです。全国どこに住む人も、そう言ってるっぽい。

でも、北海道はぶっちゃけ、過ごしやすい暑さです。……少なくとも私の脳がとらえている限り。

肌や目鼻耳から受け取った感覚が、脳の手前、脳の中、脳の奥底で、チクチク、ぬいぬい、仕立て直された結果、「今日は過ごしやすいなあ」という主観が出てきて、記憶になって、それがまた、次の記憶を縫う針になる。

これまでの体験、印象、やりとり、語彙を用いて仕立てた、私だけのオートクチュール。

今日と同じ日にぜんぜん違う気温を感じている人もいるけれど、それはその人の頭の中にある針や布が、私のそれとは違うから起こることである。

私にとっての「過ごしやすい夏」という記憶を、誰かが特殊能力で奪ったところで、私の外に出てしまえば、おそらくそれはうまく機能しないだろう。


”某・少年漫画で敵のネコっぽい亜人キャラがやっていた「脳から直接,記憶を聞き出す」っていう方法は,はじめてみた時は「これやられたら終わりだ…」と度肝を抜かれましたけども,じつはあんまり精度のいいもんではないかもしれないですね”

針仕事は嫌いではない(得意でもない)/西野マドカ

「記憶を抜いても精度がよくないかも」というのは、読んでてびっくりしちゃった。すげえこと考えるなあ。絶望的な能力を持ったキャラの意外な弱点ってブチ上がる展開だよね。西尾維新とかが好んで書きそう。


あ、あと、「精度」もそうだけど。


たとえば、私の頭の中で……私の内面だけで用いられている「言語」と、あなたの脳の中にある「言語」は、同じだろうか。

脳の中にある情報は、その人固有の表現方法で語られているんじゃないかなあと、ふと思った。だとしたら、記憶を抜き取った他人はそれを聞けるのだろうか。

あなたの脳から抜き取った「ある夏の記憶」は、そもそも、日本語で書かれているのだろうか。

あなたしか読めない「にしの語」の記憶を、私が自分の脳でどのように解析すればいいのかわからない。ヒエログリフを読むのと同じくらい、面倒で途方もない作業になりそうだ。

そう考えると「会話」ってすごいな。あらためて思う。ぼくらはみな、日頃から「互いの脳内言語を日本語に同時通訳してから話し合っている」ように思える。


このように書くと、中には、

「私は脳内に電光掲示板みたいに、日本語が浮かぶ。思考だって日本語で、言語でやっている。だから抜き取られたらそのまま読めるはず」

と答える人も出てくるだろう。

うん、私も今まではそう思っていた。「国語をきちんと学ばないと、思考力が育たない」なんて言うし。思考は日本語で行われているのだろうと。

でも、本当にそうだろうか?



たとえば今の私。

このnoteを書きながら、脳の中に文章が思い浮かんでいるかというと……うーん……まあ、文章を思い浮かべてから書いているのだけれど……今こうして指からバカスカ文字を打ち出す直前には、確かに頭の中に短文が思い浮かんでいるのだけれど……入力の直前にたしかに日本語にはなっていると思うのだけれど……。

キータッチしている直近の文章に関してはたしかに脳内で言語化したものなのだが、次の段落、あるいはその次の段落で「だいたいこういうことを書くことになりそうだな」みたいな部分は、言葉になってないモヤモヤでふんわり構築しているような気がする。脳の中に文字でも音節でもない何か別の、「理念そのもの」みたいなやつが先行して存在し、具体的に使用する段になってその都度日本語に置き換えてはいるものの、日本語に組む前にまったく思考がなかったかというと、そうではない気がするのだ。

因果を考える、みたいな論理的思考は、言語を使わないとうまくいかない(だから国語が大事だってんだろ?)。しかし、思考ってすべてが言語ベースで行われているわけではないんじゃないか。

そもそも、今の私のように、「キーボードをタッチしながら別のことを考えられている」時点で、脳の中に「ひとつながりの日本語」とは別の思考様式がバックグラウンドで走っている気がする。

となれば、「誰かの脳内の記憶を抜き取る特殊能力」は、文章化された記憶と共に、非言語の、ヌルッとした、蓴菜(じゅんさい)のまわりのネトネトみたいな、情動的なものをもごっそり抜き取ることになるか、あるいは、そのネトネトの部分を無視して文章だけを引き抜くかのどちらかになると思うんだけど、それってやっぱり、精度も悪いし、そもそも一部分でしかないんだろうな、みたいなことをずっと考えている。何語で? 日本語で、もしくは私オリジナルの言語で、いや、非言語的な私の情動も含めて。


(2022.8.5 市原→西野)