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記憶は回遊魚と同じで特定の家を持たない

西野氏

「○○氏」復権の動きがある昨今です。おはようございます。『映像研には手を出すな!』で毎回泣いてしまう中年は、ダメージが蓄積しています。

『それからはスープのことばかり考えて暮らした』みたいなタイトルがズバッと思い付くような人生が良かったなあ、と思いながら前回のお手紙を再読しています。

ポテトサラダについてはZAZEN BOYSというバンドのそのままずばり「ポテトサラダ」という曲のせいで、出張先でビールとポテサラを買ってホテルに籠もる機会が増えました。昔はおかずだと思ってたけど今はすっかり、つまみだ。

以上雑感。


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マルジナリア、付箋を挟みながらの読書、こういった「本をいじくるタイプの読書」、ぼくはめったにやらない。かろうじて、教科書の端を折って後で読み返そうと思うことだけがある。あるんだけれど、結局読み返してそれが参考になった試しがない。あのフレーズがよかった、あのセリフが最高だった、みたいなのもぶっちゃけ、

「他の人がそうやっていい書評を書いているから真似してやってみようと思っている」

にすぎない。

「読書術」についての本たちはどれも,書き込み/マーキング/付箋の貼付などを強く推奨していましたっけ

読書術みたいな本の目的って、本を使って何か成長したり、人にいいこと言おうとしたりするイメージ(偏見)ですね。いいとか悪いとかじゃなくて。いい悪いで言うとそれはたぶんちょっといい方だと思うけれども。

本を持ち寄って感想を言い合うイベントってめっちゃくちゃ楽しそうだけど、ぼくにはできない。話すこと考えながら読書したんだろうな、って思われてないかな、って自分のこと恥ずかしくなっちゃいそう。別にいいけど。


マルジナリアが大量に書き込まれた本を見るのは好きだ。おそらく、ぼくより前にその本を読んだ読者が本の著者に対してぶつけている一方的なライバル心みたいなものを、別の作品というか人間ドラマ(陳腐なフレーズだなあ!)として読んでいる楽しみだと思う。マルジナリアの内容自体に惹かれたことはない。字汚いんだもん。ていうかきれいなマルジナリア見たらそれはそれでモニョモニョするかもしれない。誰に見せるつもりだよ、みたいな……。

対談イベントやトークイベントなどの際に、著作に付箋を貼りまくった本を小脇にかかえて作者に話しかけるタイプの人を見ることがある。ぼくはそういうときについ、著者の横にいる編集者やスタッフの顔を見る。これが、おもしろい。たいていは「そんなになるまで読んでくれて……!」という純粋な喜びの表情。でもいろいろ考えてそうだな、とひそかに思っていた。

だからあなたの書いた、「マルジナリアによって内容を補足されるのキィー」って感覚はおもしろい。その視点はなかったなあ……一人で考えてそこまでたどり着ける気がしない。やっぱ人間が複数いるって大事だよね、どくさいスイッチあったら2年で押してたと思うけど、今ひさびさに「人がいっぱいいてよかった。」と思えている。いっぱいはいなくていいか。

ぼくの想像力では、せいぜい、「デザイナーは本に大量に書き込みがあったり付箋で分厚くなってたりしたら発狂するんじゃないかな?」が関の山だ。でも、デザイナーの仕事論をぼくが勝手に代弁するのも違うんだろうな。

対話だな。対話をしたい。自分以下の、自分に達していない、自分っぽい何かを持ち寄って。


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ぼくの場合、読み終わった本の記憶は忘却曲線と同じカーブで消えて行ってしまう。仕事で書評を書いている人はメモでも取りながら本を読んでいるのだろうな。あんなに覚えていられないよ。でも、たまに、本当に内容をきちんと覚えている人もいるね、個人差なのかなあ、本に対する入り込みの深さが違うのかなあ。自分の雑な読書を振り返っている。ぼくは読書が雑なのかもしれない。ぼくは読書が雑なんだと思う。

ネットワーク上でけもの道のように反復発火するニューロンが、花火のように記憶のカタチをとる。けれどもけもの道はあっという間に自然に飲み込まれてクリーンアップされ、花火も煙のニオイだけ残して消えていく。3日も立つとまぶたの裏の焼け付きすらもほとんどなくなる。「ああー、すごいいい本だったのに何がよかったのかはちっとも覚えてねぇー!」となる。でもまれに、映像の残滓みたいなのが脳の一部にこびりついていることがある。そのカケラは本当に何年も何年も、ぼくの行動を縛る。

もっとも、こういう現象は本に限った話ではない。そういえばあれからずっとポテトサラダのことばかり考えて酒を飲んでいる。

(2020.1.30 市原→西野)