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砂影じゃなくて風影なのがいいんだよ

西野さん:

なるほど蜃気楼のようにね。うまいこと言うなあ。

おや、と思ったのは手紙の中に「砂」が出てきたことです。実をいうと、ぼくの中でのさばくのイメージは、乾燥、過酷、温度差、みたいなのばかりだった。でもさばくといったら確かに、砂だ。どこで認知がゆがんだのかな。

過去の自分が分離してみえる感覚、砂が流れて消えるように自分から分離していく感覚はとてもよくわかる。細胞の代謝を考えると少なくとも4か月くらい経てば人体内の赤血球はすべて入れ替わっている、みたいな、昔の自分と今の自分はいっしょではない的な話をしょっちゅうあちこちに書いてきたので、あなたと似たようなイメージを頭の中に思い浮かべたことも、ある。

細胞代謝でいうと、過去と現在の自分が入れ替わるには数ヶ月から数年が必要だ。けれども、精神世界の話でいうならば、過去と現在の境界線はもっと自分に近いところに引かれているような気もする。いろんな人がすでに言っていることだろうけれど。

たとえばぼくにとって、過去と現在とは睡眠1回ごとにブチッと切断されている。寝て起きると昨日の自分が砂のようにさらさら流れて消えていく。だからかな、ぼくはよく、以下のような顔文字を使う。

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( 'ㅅ:;.:...

なんだよ、noteの改行って間がひろすぎるじゃないか! これでは「びっくりして耳が飛び上がってしまったうさぎ」になってしまう。砂の話がかすんでしまうなあ。「蜃気楼」になるからそれはそれでいいか。


 昔の自分と今の自分があたかも別モノのように感じられる、という精神構造にはぼくらが生存する上でどのようなメリットがあったのだろう。

自分をときおり俯瞰して、見直して、メタ認知するために、脳内で過去の自分と現在の自分とをそれぞれ別にモデル生成して比べることは、生き残る上で便利だったのかもしれない。そんなことをふと思いついた。

ぼくら、何もないところからぽっと出てきたものを評価するのは思ったよりずっと苦手だ。何か比べる対照がないと、ものごとを深く考えることができないんだと思う。

しかし振り返ったら足下の砂が盛り上がってこっちを見ているってのはドラクエ的だしNARUTO的だ。ガアラっておでこに愛って書いてあって「愛かよ」って思ったよね。「我じゃないのかよ」って。


(2019.7.8 市原→西野)