「それは機械がやれることだ。」
「同じ事を何度も何度も言い続けること」というのは、ひとつの「手段」に過ぎない。
この「手段」は、主に教育の場面で必要とされる。根幹の部分が不変である基礎知識や基礎教養を、次から次へと新しく訪れる生徒たちに伝えようと思ったら、教師役の人はどうしたって、同じ事を毎年言い続けなければいけなくなる。
「同じ事を何度も何度も言い続けること」には、ある程度の「能力」を必要とする。
「能力」は後天的に鍛えることができるが、生まれ持った性格や資質にもかなり影響されるように思う。苦手な人はなかなか上手にならない。
ぼくは学校教師ではないし、患者と会話するタイプの臨床医でもない。ただし、臨床医たちにマニアックな知識を伝達する仕事ではある。従って、職能がときに教師的な色彩を帯びる。
また、研修医や専攻医たちに指導をする機会も多い。この場合はまさに「先生」とならざるを得ない。
だからぼくはこの「手段」――同じ事を何度も言うこと――をときどき使うことになる。
……お察しの通り、ぼくはこれが、すごく苦手だ。
つい言い換えようとする。前回臨床医Aに説明したやり方よりも、このたび臨床医Bに説明するやり方のほうが圧倒的によくなっていてほしい。同じ事をそのままくり返すなんて芸が無いと感じる。去年よりも今年のほうがよりおもしろい表現にできないだろうかと頭をひねる。というかそもそもこの項目を教えるのは必須だったろうかと悩む。
どうしても同じ事を言わなければいけないシチュエーションもあり、内心かなり抵抗を感じている。
研修医に病理診断を指導するとき、去年の研修医に精魂込めて教えた内容をまたくり返すことになるが、このときぼくは毎回、
「ぼくが今やっていることは、機械がやれることだ。」
と思う。自分がペッパー君になった気がするのだ。あるいは、
「同じ事を毎年言うのならば、本にして読んでもらった方が早い。」
と思い、実際にそれを本にする。
本にするメリットは、「……という内容は本にもしておいたからあとで読んでおいてね。」と、自分ですでに飽きてしまっている内容を本に受託できることだ。デメリットは、「本で読んでわかるならぼくがここにいる必要はないな」と感じてしまうことである。
で、まあ、毎回こうやって自分のしゃべること、書くことをアップデートし続けなければ死ぬ呪いにかかりながら暮らしてきたのだけれど、先日、自分で書いたnoteを読み直していて、ふと、これまでとは違うことを思った。
「あっ、きっかけとなる発言者が「同じ事」を語っていたとしても、毎回違う聴衆が「異なるリアクション」をとれば、それは違うやりとりになるんじゃないか?」
「たいせつなことを何度も言う」
「たいせつなことを毎回くり返す」
発言者である自分にばかり目が行っていると、「これ、こないだも言ったなあ。」とテンションが下がる。
しかし、そこで起こっていることが「一方的な講義」ではなく、「やりとり」であることを自覚すると、どうだろう。
自分が対話のきっかけとして語る内容なんて、前回のコピーであってもいっこうに構わない。
「教師役」は、序盤はペッパー君であってもいいのだ。ただし、聞き手のリアクションに瞬時に反応して、やりとりに応じて語る内容を調整していくと、最終的には一期一会のやりとりがふくらんでいく。
「授業」の最初から最後までまったく前回と同じなんてことはあり得ない。それはリアクションを取る側が毎回異なっているからだ。違う人が相手ならもちろんのこと、同じ人が相手であっても、「過去と今とでは違う人」になっているはずなのである。
もし語る相手がペッパー君だったら? それだとだめかもしれない。
でも、ペッパー君以外に教えるならば、同じ事を語ることに抵抗を覚える必要はないんだ。……そうかなるほど……。
今、ちょっとした発見があったのはいいとして、今度は「思ったよりぼくは自分がしゃべるときのことしか考えていなかったんだな」ということを考え始めている。
記事のおわり、着地点にはきれいなまとめをすべきなのかもしれないが、予定調和な記事なんていくら読んでも思考の衝突が起きないので気にくわない。
自分が書いた過去の記事まで引っ張り出してきて何かを語ったのだ、そこでは自分の過去と今とが衝突しているはずであり、ぶつかったぼくにはなんらかの変化が起こっていないとおかしい。
最初から見えていた結論にまっすぐ向かって行くnoteなんてクソだと思う。
いいやこのままぶん投げてしまえ。記事が公開になったらまたそれを読み直し、考えが少し変化して、ぼくは同じ事をくり返し言わなくてもよくなるはずなのだ。
あれっ?